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四十年の忍耐

正月休みに、娘たちの買い物に付き合った。行き先が名古屋であり、勝手知らぬ場所ということだったので、親心から一緒に付いていくことにした。よくよく考えてみれば、母親が一緒にいるのだから、わざわざ父親の私までが一緒に行く必要はなかったのかもしれない。とは言え、名古屋に行くなんて久しぶりだなぁ、何かおいしいものあるかなぁ、とも考えていたので、ついでの名古屋観光という程度にしか考えていなかった。後にこれが失敗の元であったと気付くことになるのだが、その時はまだ「(和菓子の)両口屋是清のどら焼き屋さんがある!しかも、イートインができる!」とか「チーズの漬物がある!味醂粕漬と味噌粕漬か、どっちも気になる……」とか、韓国コスメのお店やアクセサリーのお店を見ている娘たちとは別にひとりで楽しむこともできた。

さて、娘たちが行きたいと言っていたパルコにやってきた。が、これはいけない、人が多い。いや多いどころじゃない、多過ぎる。しかも若い子たちばっか。おまけに、みんな金太郎飴を切ったかのように似たような姿格好をしている。右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、並みならぬ熱気を帯びた人ばかり。何より人混みが苦手な私にとっては、これは苦痛以外の何ものでもない。人混みならディズニーリゾートも人で溢れかえっているかもしれない。でも、あそこは屋外だから常に空気は新鮮であり、順番待ちで並んでいるわけでもなければ、自由に歩き回れるし、疲れたら休むこともできるから、まだ許容範囲である。もうひとつ、人混みと言えば、通勤ラッシュの電車の中は文字通り身動きすらままならないほどの人混みである。でもまだ、通勤ラッシュなら終わりが見えているだけ我慢のしようがある。でも若い子の買い物は終わりが見えない。

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帰ってきたペテロ

何が大変かと言えば、毎度のことだが、「これ」の書き出しをどうするかということだ……。いきなり本題、つまりは聖書の話から入ることもできるのだが、そうすると真面目になり過ぎてしまうような気もするし、いかにもな雰囲気にになってしまいそうで、どちらにしてもかたくるしいものと思われてしまい、そうなると興味を持ってもらえないのではないか、つまり読んでもらえないのではないか、などと考えてしまうのである。そういえば牧師さんも礼拝のメッセージの前にジョークなり、小話を語ったりするものだが、なんとなくそうする牧師さんの気持ちも分からなくもない。わざわざ最初から敷居を高くしてしまうこともないだろう。むしろ敷居を低くしておいて、話の聞き手なり読み手なりの注意を引き付けておきたいものである。本題で伝えたい肝心なところにたどり着く前に、相手の興味が失われしまっては元も子もないというものだろう。

それにしても、毎回ネタを考えるのは難しい。毎日の生活の中での思ったことや気付いたこと、見たことや聞いたことから、これぞというものを探そうとするのだけれども、いざ書こうとすると何も思い浮かばないこともある。さすがに、手持ちのネタも底を尽いている今日この頃である。頑張って何とか捻り出そうと苦労しているのだ。今さらだが、気になったことをその都度書き留めておけば、後から役に立てることができそうなことは分かっているのだが、実際はそうするわけでもない。私の問題は、せっかく思いついた物事を忘れてしまうということもさることながら、いや、もしかしたらそれよりも根が深いのは、忘れてしまう自分に気付かないことだろう。「良いこと思いついた!次はこのネタを使おう!」とその時は妙な自信たっぷりなのだが、後から「ありゃ、何だったかな?」となってしまうのである。
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三度まで

「あなたは信仰を捨てることができるか。」もしこのように聞かれたら、私は何と答えるだろうか。おそらく私はこう答えるだろう。「いや、信仰を捨てることなどできない。」

しかしながら、そう答えたからと言って、必ずしも私が信心深いかと言えば、そういうわけでもないように思われる。それというのも、信仰を捨てる必要もなければ、信仰を捨てたいという特別な理由があるわけでもないから、信仰を捨てないだけだからだ。どちらかと言えば、消極的な理由でしかない。もしくは、神の存在しない世界など考えることができないほどに、信仰が当然のものになっているからとも言えるかもしれない。先に挙げた理由よりは、少しは真面目な理由かもしれないが、やはりこれもどちらかと言えば消極的であることに変わりはないだろう。いずれにしても、私の信仰が受け身に近いものであることが分かってしまいそうなものである。私が信仰を持ち続ける理由は、私が神を熱心に求めているからとか、神のみことばである聖書に従って生きようと願っているからとか、そのような積極的な態度ではない。
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絶対ない

絶対ない、ありえない。そのように始めから何かを決めつけるかのようなものの言い方は良くないとは、広く言われていることであろう。とは言え、世の中には可能性がゼロではないにしても、限りなくゼロに近い物事はそれなりにあるだろう。ところで私のヘンな趣味のひとつに、そのような限りなく「ありえない」ようなことがもし起こったらどうなるだろうか、と考えることがある。まぁ、しょうもない妄想だと思って構わない。

例えば、先日実家の庭木の剪定を手伝いに行ったのだが、ゴミに出し易いようにと、切り出した太い枝から細い枝を掃っていると、手にしていた枝がだんだん棍棒みたいになってきた。そんな自家製の棍棒を見ていたら、ふとこんなことを考えてしまったのだ。もし、今ゾンビが襲ってきたら、この棍棒で戦うことができるだろうか、なんてことを。いや、ゾンビがどれほど強いのかまったく見当もつかないが、さすがに木の棍棒でぶっ叩いても、たいしたダメージを与えられそうにないような……ここはやはり、棍棒に釘とか何らかの金属片を打ち込んで、もっと打撃力を上げた方がよいだろうか。でも、釘が抜けちゃったらどうしようか、そうか、穴を開けて、ぶっといボルトを通してナットで固定すればそんな心配もないか……いや、そもそもゾンビなんていないじゃないか、なんて夢の無いことは考えない。ゾンビを見たことがないだけであって、だからと言ってゾンビがいないというわけでもないだろう。なんてことを考えてしまうのだ。わずかでも可能性があるとすれば、それが限りなくゼロに等しいものだとしても、「絶対にありえない」とは言い切れまい。
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ペテロの不安

ここしばらく、最後の晩餐の場でイエス・キリストが弟子たちに語ったことを見てきた。イエスが弟子たちと最後に過ごす晩に彼らに語ったことは、イエスにしてみれば、どうしても弟子たちに聞いておいてもらいたい、彼らに知っておいてもらい、とても重要なものであったろう。イエスはこの夜が彼らと共に過ごす最後になるのを知っていたのだから、どうしてもこれだけは伝えておかなければならないと、そう考えていたに違いない。イエスでなくとも、誰でも今日が最後であることを知っていれば、大事なことを後に残る人々に伝えておきたいと考えるはずだ。例えば、仕事の引継ぎなども同じようなものだろう。私がそれまでやってきたことを、次に担当する人に伝えておくというのは、当然のことだ。さもないと、何かと支障が出てしまう。イエスは神の国の福音を伝えるという、重大な責務を負っていたのだからなおさらだ。

ところでその食事の時に、イエスはシモン・ペテロに呼びかけてこう言った。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカの福音書22章31~32節)
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