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マリヤの賛美

起こり得ないことが起きたという奇跡を、神の御使いから知らされた、いや、知らされたどころか、自らが体験することになったマリヤであるが、その後どうしたであろうか。普通であれば、何か良いことが起きたら、誰かに知らせたくなってしまうものであるが、状況が状況だけに、彼女は誰にも話さなかったことだろう。もし近所の人に話してまわったとしたら、可哀想に気が変になってしまったに違いない、と思われたことだろう。それどころか、婚約者であるヨセフに呆れられて、結婚が取りやめになってしまうかもしれない。それだけは避けたかったことだろう。さらには、未婚であるのに妊娠していることがばれたりでもしたら、たとえそれが神の御力によるものだったとしても、果たして人がそれを信じるだろうか。人は他人の良いところよりも悪いところを見ようとするものであろう。それこそ、彼女のことを不道徳の女として、石を投げつけてしまうかもしれない。などと、色々と考えたのだろう。彼女は御使いガブリエルから告げられたことを、誰にも言わなかった。たった一人を除いては。

ルカはその時のことを、このように記述している。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」(ルカの福音1章39~40節)彼女は知り合いのエリサベツにだけは、自分の身に起こったことを知らせようとしたのかもしれない。なぜならエリサベツも似たような奇跡を体験していることを、マリヤは知っていたからで、もしかしたら話しを聞いてもらい、理解してもらえると考えたのだろう。そして、エリサベツにお祝いの言葉を伝えたかったのかもしれない。
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ふたつの奇跡

私の思いつきと言ってしまえばそれまでかもしれないが、奇跡というものには二つあるのではないだろうか。

子供が生まれぬままに年老いたザカリヤとエリサベツの間に、子供が授けられたとことは、奇跡と呼ぶことができるだろう。まずこれをひとつの奇跡とする。ところでエリサベツのことがあってから、六ヶ月経った頃のことである。「御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」(ルカの福音1章26~27節)先にも見たように、ガブリエルは「喜びのおとずれ」(同19節)を告げるためにやってきたのである。とは言え、マリヤは今初めて御使いに出会ったのだから、そのことを知らなかったに違いない。「御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」(同28節)
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おとめマリヤ

十二月も半ばを過ぎたなぁ、などと思っていると、ふと見掛けた電車の吊り広告にこうあった。「年末ジャンボ宝くじ、販売は12月21日まで。」ふーむ、一等前後賞合わせて六億円とか、実に景気の良い話である。今年も買おうかとどうしようかと悩みつつ、まだ買わない自分がいる。余り物には福があるとばかりに、ぎりぎりまで待っているわけでもない。たかだ夢を見るのに三千円というのは、ちょっと高いのではないかと、ためらっているだけだ。ケチな話かもしれないが、三千円を払うだけの余裕があれば、自分が欲しいと思うものや、何か役に立つようなものや、後々まで形に残るものを買うのに使った方が得なのではないかと考えてしまうのだ。しかし何よりも、神が我が家を宝くじを用いて祝福することはないだろうと最近思うようになってきたのだ。もちろん信仰さえあれば、宝くじで祝福というのもあり得ない話ではないだろうが、私に限って言えば、宝くじは神の選ぶ手段ではないと思う。これもまた信仰なのであろう。

しかし駅の構内などにある宝くじ売り場にたまに掲示してある「二等三千万円、この売り場から出ました!」などと言った看板や張り紙を見るたびにこう思うのである。誰かの人生が変わったな、と。それが良い方に変わったか、悪い方に変わったかは、それは私の知るところではない。おそらく宝くじを買う多くの人々は、是が非でも当ててみせようと意気込んで買うのではなく、私と同じように、買うのは夢であって、運が良ければ当たるかも知れないという軽い気持ちで買っているだろう。そのようなどこにでもいるような人が一瞬にして何千万、いや何億円という金額を手にすると知ったらどうなるだろうか。私には想像すらできないが、おそらく驚くことに違いはないだろう。実際、賞金を受け取りに来ない人がいることを考えると、文字通り「運を使い果たす」というわけではないだろうが、ショックで死んでしまう人もいるんじゃないかと疑ってしまう。まぁ、予想外の出来事に遭遇したときの反応というのは、人それぞれであろう。
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