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追い付く神

もしも、の話である。もしも未信者の私と信仰者の私が会話をするとしたら、一体どのようなことを話すのだろうか。とは言え、元来無口な人間が二人集まったとしても、たいして話は弾まないだろうと思うのだが、最初に書いたように「もしも」の話である。そうでないと、話を先に進めることができない。さて生まれつきの信仰者でもない私は、かつては信仰とは無縁の生活を送っていたものである。そう考えると、信仰者の私は未信者の私がどのような人間であるかをすでに知っているのだから、あれこれともう一人の私に質問することはないだろう。だが未信者の私から見れば、信仰を持っていると私のことが不思議に思えてならないだろう。何だかんだと聞きたいことがあるに違いない。おそらく、その一つはこのようなものに違いない。「何が楽しくて、日曜の朝早くに起きて、教会なんかに行くんだ?」

「教会に行くことの楽しさなんて、信仰を持ってないお前なんかには分からんだろう。」いやいや、そんな無愛想な回答はしないと思う。たしかに私が無愛想なことを否定はしないが、こんな答えをするわけがない。なぜなら信仰者である私自身が、まったく同じ質問を自分に向かってすることがあるのだから。つまり、正解が分からないのだ。もし明確な答えを持っているのであれば、おそらく自問することもないであろう。では改めて考えてみよう。「何が楽しくて、休みの日の貴重な時間を犠牲にしてまで、教会に行くのだろうか。」
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ヨナの愚痴

遠い昔、ヨナと言う男がいた。ヨナは預言者であった……が、模範的な信仰者であったかというと、どうも疑わしい。彼について一番知られている話といえば、やはり大きな魚に飲み込まれて、生臭い魚の胃袋の中で三日三晩を過ごしたことであろう。預言者と言うと、やはり神のみことばを人々に伝えるのが主たる役割であり、それを考えると神に対して忠実な人物であると考えてしまう。少なくとも聖書を読む限りでは、神のみことばを伝えるために働いた人々というのは犠牲を惜しまずに、その目的のために一生懸命になった人ばかりのように思われる。また聖書には書かれていなくとも、歴史に名を残す信仰者には、そのような人々が多いのではないだろうか。考えてもみれば、神のみことばを伝えるという使命に忠実であればあるほどに、自らのことであれこれと思い煩う余裕などなくなるに違いない。

ところでヨナであるが、そのような典型的な預言者とはちょっと違った。彼はあからさまに神の言いつけから逃れようとしたし、また神のなさることのいちいち文句をつけたり、愚痴をこぼしたりと、どうにも従順とは言い難い人物であった。神がニネベへ行けと彼に命じたら、彼はまるで別の方角へと船に乗って逃げ出してしまったほどだ。当然、神はヨナを見逃さなかった。彼の乗った船は嵐に遭遇し、最終的に神の怒りを静めるために、船に乗り合わせた人々は彼を荒海のなかへ放り出したのだった。
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