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全きいのち

もうあれから何年経ったことだろうか。少なくとも四半世紀は経ってしまっただろうか。それでもまだ私の心の中に残っている景色がある。イースターの朝、普段の日曜よりも早く起きて、朝の早い時間に、公園の中にある小さな湖の畔で行われる礼拝に参加する。そして礼拝が終わった後には、シアトルの街並みを対岸に見ながら海岸沿いの道を行ったところにある、打ち寄せる波の穏やかなピュージェット湾に臨むカフェで、まだ温かさの残るシナモンロールにホイップバターをたっぷりと載せて食べる。なんと贅沢な朝の過ごし方だろうか。まだ若くて、たいした悩みや心配も、負うべき責任もなく自由に過ごしていた頃だ。あのような日はもう二度と巡ってこないかもしれない。だが、それも仕方ないことかと、あの頃を懐かしむ自分自身と和解できるほどには私も成長したようである。

さてここ最近になって、ようやくイースターの知名度も上がってきたように思われる。とは言え、まだクリスマスほどには知られていないというのが現実であろう。さらに言えば、イースターと言うと、なぜかたまごが連想されてしまうようであるが、たまごが主役の日ではない。たしかにイースターエッグとは言うけれども、クリスマスにとってのクリスマスツリーがそうであるように、本来の意味や目的を象徴するための脇役でしかない。

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神によって造られた

新しい一年の始まりである。今年はどんな一年になるだろうか、とぼんやりと考えるよりも、今年はどんな一年にしていこうかとか、今年はどんな一年にしたいのだろうか、と前向きに、積極的に考える方が生産性が上がって良いのかもしれないと、そう思っている今日この頃である。

一年の計は元旦にあり、と考えるときに、ここ十年、いやもしかしたら二十年くらいになるかもしれないが、真っ先に思いつくのは、今年こそは体重を落とすとか、痩せるとか、そういうことが多いような。毎年毎年飽きもせずに同じことを思いつのかと、自分の発想の貧弱さを恨めしく思うこともあるのだが、よくよく考えてみれば年末から年始にかけて、クリスマスの時期とも重なっていることもあり、家の中に食べ物が豊富にあってためらうことなく食べてしまうから、自然と体重が増してしまうのである。なお、このひと月の間にどれだけ重量を増してしまったのかと気になって体重計に乗ってみたら、2キロ近くも増えていることが発覚。これが現実だから、真っ先に頭に浮かぶのが「痩せなきゃ」というのも納得できよう。「天高く馬肥ゆる秋」と言うけれども、私の場合は一番肥えるのは冬のこの時期なのである。体に脂肪をつけて寒さをしのぐとか、そんな言い訳も通じないだろう。むしろ、その余った脂肪を燃焼させて、体を暖めるくらいの運動をする方が色々と効果的な気がする。

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永遠に生きること

神がなさった良いこと。今ひとつは、永遠のいのちを約束してくださっていること。

ところで永遠のいのちと言っても、神が与えられるそれは、いわゆる不老不死というものではない。もし神が不老不死のいのちを与えようと言ったら、私はどうするだろうか。果たして、それを喜んで受け入れるだろうか。いやいや、それはないだろう。私はきっと遠慮するに違いない。いや、遠慮ではなくて、はっきりと断るだろうと思う。不老不死。すなわち老いることもなければ、死ぬこともない。それだけを聞くと、なんとも良いことのように思えなくもない。老いず死なず、ということは寿命がないということになる。言うなれば、時間の制限を受けることのない身分になるということだ。やりたいことがあったら、いつでもやることができるのだ。今日やれなかったら、明日でもよい。そして明日がだめなら……時間はいくらでもある。そうやって考えると、ずいぶんと気が楽になるのも確かだ。焦ることも慌てることもないのだから、のんびりと日々を過ごせるに違いない。

しかし冷静に考えてみれば、そんなに楽しいことばかりではないのが、この世界の現実ではないだろうか、残念なことかもしれないが。例えば、やりたいことをやるだけの時間が限りなくあったとしよう。そうだとしても、あるのは時間だけで、お金は保証されていないのだから、やりたいことをやるためのお金を稼がないといけない。不老だから永遠に定年にたどりつかないわけで、つまり永遠に年金を払い続けるだけで、いつまで経っても年金をもらうことはできないのである。当然、定年退職を迎えることはないので、退職金を手にすることもできない。どれだけ働いて、どれだけ積み立てても、返ってこないのである。まぁ、途中で退職すれば話は別だろうが、いつかまた働かないとならない。つまりは、これを永遠に繰り返さなければならない。そうだとすれば、世の多くの人々にとっては、これは苦痛以外の何ものでもないだろう。
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真理とは

自由になりたい、そう思う人たちは世の中に大勢いるだろうと思う。とは言え、そう願う人たちにとっての自由とはいったい何であろうか。心配や不安から解放されることが自由なのであろうか。社会的な責任や公的な義務から解放されることが自由なのであろうか。それとも、もっと単純に好きな時に好きなだけ眠り、食べたいものを食べたい時に存分に食すことが自由なのだろうか。金銭的な制限がなくなり、欲しいものをすべて手に入れることが自由であろうか。自由という言葉をひとつとっても、その言葉の持つ意味というのはそれを聞いた人によって様々であろう。

ところで、聖書にはこのように書かれている箇所がある。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネの福音書8章32節)さて、それでは真理とはなんであろうか。真実、まことのこと。正しいこと、本当のこと。そう言うと、何やら確かなもののように思われるが、案外そうでもないのかもしれない。本来であれば、真実とは普遍的なものであるべきであろう。だが実際は、人にとっての真実というものは、その人が真実だと認めているものが、その人にとっての真実でしかないのではないか。たとえば、人の起源について考えてみよう。ある人は、神が世界の始まりに人間を創造されたと考えるだろう。またある人は、人は原始の海で発生した細胞が長い年月を経て人に進化を遂げたと考えるだろう。他にも、宇宙人が遺伝子操作で造ったとか、そもそも人間というのは現実には存在せずコンピュータのシミュレーションの中で存在しているに過ぎないとか、もはや私の想像を超えた考えまである。そして、大半は自らの考えが真実であると言って譲らないだろう。もちろん真実が普遍的なものであることに間違いはない。ただ、その普遍的なものが何であるか、どう頑張っても全員が合意に至ることはとても難しい、いや不可能なのではないかと思う。
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たまごよりだんご

桜が咲いた。文字通り満開である。家の近所の桜並木はこれでもかというほどの花を咲かせているし、夜の帰宅時の電車から見ることのできる大岡川沿いの桜は、露店の煌々とした照明に照らし出さていたり、ぼんぼりのおぼろな灯りに浮かび上がっていたり、遠くから見ても見事なものである。長らく灰色の寒々とした日々を過ごしてきた人々には、暖かな空気に包まれ、淡い桃色の花を纏う桜に春の訪れを感じるのだろう。この時期、桜の木のもとには―失礼な言い方になってしまうようで申し訳ないが―それこそどこから湧いて出てきたのかと思えるくらいに人が集まってくる。個人的な好みの問題でしかのかもしれないが、私は青々とした緑の葉を付けることもなく、ただ花だけを咲かせている桜というのは、苦手である。確かに華やかかもしれないが、どこかバランスを欠いているようで、どうも違和感を感じてしまうのだ。世に言われているような春の訪れを感じるには、何と言うか生命力や活力に乏しいような気がしてならない。

ところで、今日はイースターである。どこまで本気なのか分からないが、商魂たくましい企業などは、この日を玉子を食べる日として世間に広めたいらしい。彼らにしてみれば、イースターと言えば、海外ではイースターエッグが有名だということで、どうやらそれに乗っかろうという気持ちがあるようだ。それにクリスマスと比べると、イースターは盛り上がりに欠けているので商機と見ているところもあるだろう。もっとも多くの日本の消費者にとっては、この時期はお花見に忙しく、今さら玉子を宣伝されてもそれどころではないのかもしれない。この日の本来の意味を知る立場としては、イースターの認知度がクリスマスほど高くないのを残念に思う反面、誤った知られ方をしていないことはありがたいことだとも思う。
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