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ペテロの不安

ここしばらく、最後の晩餐の場でイエス・キリストが弟子たちに語ったことを見てきた。イエスが弟子たちと最後に過ごす晩に彼らに語ったことは、イエスにしてみれば、どうしても弟子たちに聞いておいてもらいたい、彼らに知っておいてもらい、とても重要なものであったろう。イエスはこの夜が彼らと共に過ごす最後になるのを知っていたのだから、どうしてもこれだけは伝えておかなければならないと、そう考えていたに違いない。イエスでなくとも、誰でも今日が最後であることを知っていれば、大事なことを後に残る人々に伝えておきたいと考えるはずだ。例えば、仕事の引継ぎなども同じようなものだろう。私がそれまでやってきたことを、次に担当する人に伝えておくというのは、当然のことだ。さもないと、何かと支障が出てしまう。イエスは神の国の福音を伝えるという、重大な責務を負っていたのだからなおさらだ。

ところでその食事の時に、イエスはシモン・ペテロに呼びかけてこう言った。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカの福音書22章31~32節)
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災い転じて

普通に考えれば不幸になりたいという人はいないだろう。仮に不幸だとしても、ずっとその境遇に留まっていたいと思う人も、おそらくいないだろうと思う。誰だって不幸でいるよりは、幸せでいたいと考えるに違いない。幸せの定義というものが十人十色であるとしてもだ。だが人は不思議なもので、不幸自慢や不幸比べをしたくなってしまう生き物らしい。自分はこれだけ苦労しているとか、自分はこんな大変な目に遭ったとか、なぜか人は自分の身に起きた悪いことをこれ見よがしに人に語ってしまうのである。そんなに暗い思い出なら、何も人に話さないでもいいのではないかと思うのであるが、どうして人は矛盾したようなことをするのだろうか。人から同情されたいからなのだろうか。人から哀れまれたいからなのだろうか。はたまた自分より不幸な人を見つけて、自らを慰めようとでもいうのだろうか。もっとも意図的にそんなことをする人はいないだろうが、なんというか、人間とは嫌らしいものである。

もし本当に不幸のどん底に叩き落とされた人だったら、そんな自慢話をするような余裕はないだろう。そうだとしたら、口に出して言っているうちは、不幸ではないのかもしれない。さて不平や不満は積もるほどあるにしても、幸いにも、私は自分が不幸だと思ったことはないから、いわゆる不幸な人の気持ちは正直に言えば分からない。そんなわけだから、今まで私が言ったことは推測でしかない。もし間違っていたら、申し訳ない。あらかじめ謝っておこう。
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ヨブの不幸

遠い昔、ヨブと言う男がいた。彼について聖書にはこう書いてある。「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。」(ヨブ記1章1~3節)まさしく順風満帆を絵に描いたような人生を過ごしていた。人として立派であっただけでなく、信仰者としても確かであった。そして家族にも恵まれ、仕事も順調であり、経済的にも何一つ不自由を感じていなかった。誰もがうらやむ生活を送っており、不幸や絶望とは無縁とも思える人だった。

ところがある日のこと、突然の不幸が彼を襲ったのだ。「シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。」(同15節)「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。」(同16節)「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。」(同17節)こうしてヨブは職を失い、財産を失ってしまった。しかし不幸はそれだけでなかった。これらの悪い知らせが続々と届くなか、また使いがやってきて、すでに打ちのめされているヨブにこう伝えた。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で宴会を開いておられました。そこへ荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。」(同18~19節【一部新共同訳】)
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