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静かな時を

クリスマスと聞いた時に、私たちは何を思い浮かべるだろうか。私の頭にまず一番に浮かぶことは何であるかと問われれば「クリスマスの雰囲気」と答えるであろう。クリスマスの雰囲気と言ってしまうと、なんとも曖昧で抽象的で、かつ主観的なものであるから、説明することは難しいような気がする。もし私と同じ考えの人がいるのであれば、私が言わんとしていることを分かってくれるかもしれない。たぶん、だけど。その素晴らしい雰囲気は、良い意味で言葉にして表すことができないのではないだろうか。もっとも今年に限って言えば、今までのクリスマスとはだいぶ様子が違っているというのも、残念なことだが事実である。しかしクリスマスがなくなったというわけではない。クリスマスは今までもそうであったように、今も私たちと共にあるのだ。(いや、クリスマスが共にあるという言い方は、ちょっと違うかもしれないが、他に相応しい言葉が見つからない……)

ところでクリスマスと聞いて、私(そして私と似たような考えを持った方たち)以外の人々は何を思い浮かべるだろうか。ある人はクリスマスと聞くとプレゼントを思い浮かべるかもしれない。プレゼントを贈ったり、貰ったり。確かにプレゼントは贈るにしても、貰うにしても、どちらも嬉しいものである。家族や友と集い時を過ごすことか。ちょっと、今年は厳しいかもなぁ。他にも、クリスマスケーキ、クリスマスツリー、イルミネーション、サンタクロース等など、この時期に人々が思い浮かべることは様々にあるだろう。私の場合は、それが「雰囲気」というものなのである。

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クリスマスの過ごし方

ステレオタイプとも言うべき日本の一般的なクリスマスの過ごし方といえば、ケンタッキーフライドチキンを食べたり、恋人同士で過ごしたり、ということになるか。何かの記事で読んだが、外国の方々の目にはこれが奇妙なものに映るらしい。たしかに外国人でなくとも、私もさすがにこれは何かが違うと思うこともある。メディアやコマーシャリズムに洗脳されているのではないかと、疑わずにはいられない。では、そのように言う外国の方々はどのようにクリスマスを過ごしているのだろうか。私の経験から言えば……もっとも1990年代のアメリカ、太平洋岸北西部でのことになるから、もしかしたら情報としてはやや古いかもしれないが……クリスマスというのは、家族や親戚が集まって、七面鳥やハム(念のために言っておくが、私たちが普段食べているあのハムではない)を食べて過ごすという具合である。どちらかと言えば私たち日本人のお正月の過ごし方に似ているかも。ちなみにアメリカには日本みたいにクリスマスケーキというものも存在しない。デザートが出てくる場合は、パイが多いかも。前月の感謝祭の時に材料をまとめて買ったのか、それとも買い過ぎてあまったのか、パンプキンパイが多かったような気もする。

たしかにそのような過ごし方をしてきた人には日本のクリスマスは不思議に思えるかもしれない。とはいえ、場所が違えば文化も異なるのだから、それも仕方のないことのように思える。考えてみれば、今の時期南半球は夏なのだから、北半球の住人のイメージするクリスマスとはだいぶ違うだろう。中学の頃の英語の教科書には、オーストラリアでサーフィンをするサンタクロースの写真が載っていたのを覚えている。

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幸せな人の習慣

神がなさった良いこと。今ひとつは、人が幸せになるための道を、神が備えてくださっていること。

何がきっかけなのかはまったく分からないが、時々何かの拍子に、自分は幸せなんだろうか、と考えてしまうことがある。そしてこれも毎度のことなのだが、そんなことを考えていると、では、幸せとは果たして何なのであろうか、という疑問も湧いてくる。幸せが何であるか、その答えは、今に至っても私には分からないままだ。おそらくいつまで考えてもその答えを見出すことはできないかも。結局のところ、幸せというのは明確な定義などないのだろう。人が幸せだと感じていれば、その人は幸せなのだし、反対に幸せじゃないと思っているのであれば、その人は幸せではないのだろう。その人がどう感じているか、それだけのことなのかもしれない。つまり、人を取り巻く環境や状況がその人を幸せにするのではなく、人が置かれている状況をどう捉えるかが人を幸せにもするし、不幸にもするのだろう。水が半分入っているグラスを見て、まだ半分残っていると考える人は幸せな人だろうし、半分もなくなったと考える人は幸せな気分にはなれないだろう。まったく同じ状況でも、それをどう捉えるかがその人を幸せを左右すると言うことか。

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待つこと

電車通勤の経験が長い人であれば、おそらく一度や二度は、途中でお腹の具合が悪くなって、目的の駅にたどり着く前に下車してトイレに駆け込んだことがあるだろう。私もそのような一人である。というか、私の場合はふた月に一度くらいの頻度であることなので、通勤途中の主要な駅のトイレの場所と、どの駅のトイレが比較的新しくてきれいであるかは、概ね把握しているつもりだ。経験のある人なら分かってくれると思うが、あと一駅で降りる駅に着くから我慢しよう、などとは思わない。その一駅の距離が命取り、とまではいかないだろうが、私は経験したことがないが思わぬ事故や、そこまで至らずとも、この世に生まれてきたことを後悔したくなるほどに悶絶の一歩手前を味わうことになろう。たとえ仕事に遅れようとも、後で文句を言われようとも、そんなことはどうでもよい。安全と健康を考えるのであれば、我慢などせずにさっさと電車を降りるに限る。耐え忍んだところで、誰も褒めてはくれないのだし。

さて、ある日の私は上野東京ラインに乗って東京駅を目指すものの、ひとつ手前の新橋でギブアップ。電車を降りてトイレを目指すのだが、トイレにたどり着いたからと言って、すぐに目的を達成できるわけではない。なぜなら目的を同じにする人たちが大勢いるからだ。さらに待つこと数分。ようやく順番待ち行列の先頭になった。苦しみからの解放はもう目の前である。自分の順番が来るのをじっと待つ。もしここで誰かに「一万円あげるから譲って欲しい」と言われたらどうするだろうか。いや、冗談じゃないと、きっと断るに違いない。「では、百万円にするから」と言われたら……一瞬心を動かされてしまうが、この場所で待つことには百万以上の価値はあるだろう。まぁ、さすがに二百万と言われた、考えてしまうだろうが。待つことには待つだけの理由があり、待った末に得られるものにはそれだけの価値があるのだ。
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見ても気付かず

私にとって至福の時間とは何であろうか。何をしている時に、私の身も心も平安に満たされるだろうか。やはり信仰者として、ここは「聖書を読んでいるとき」とか「礼拝をしているとき」とか答えるべきなのかもしれないが、実際は違う。もっと現実的というか、五感すなわち肉体で感じることのできるものが、私を満足させるのである。例えば、おいしいものを食べている時とか。それ以外では何があるかなぁと考えてみると、いや、何が気持ち良いかって、やはり背中を掻いてもらうことだろう。もしくは、自分で孫の手を使って掻くのでも十分に幸せを感じることができる。私がまだ子供だった頃からの癖というか、好みというか、今でも変わらないことのひとつと言えよう。きっと歳を取って死ぬまで、これは変わらないだろう。

いや、誤解されるといけないから念のために言わせてもらうが、毎日必ずとは言わないまでも、風呂に入るときには背中も洗うようにしているから、垢が積もって痒みがあるというわけでもない。痒いから掻いてもらったり、掻いたりするのではなく、ただ気持ちが良いからという、ただそれだけの理由だ。さて先日背中に手を伸ばしてみたら(ついでに言うと、誰にも掻いてもらえず、孫の手も手近になければ、仕方がないので手を背中に回して自分で掻くこともある……もちろん範囲は狭まってしまうのだが、何もしないよりはマシである)掻き過ぎてしまったのだろうか、引っ掻いた跡のようにカサブタができているではないか。灯台下暗し、ではないけれども、自分の背中というのは、直接見ることができないだけに、どうなっているのか気付かないものである。
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