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幸せな人の習慣

神がなさった良いこと。今ひとつは、人が幸せになるための道を、神が備えてくださっていること。

何がきっかけなのかはまったく分からないが、時々何かの拍子に、自分は幸せなんだろうか、と考えてしまうことがある。そしてこれも毎度のことなのだが、そんなことを考えていると、では、幸せとは果たして何なのであろうか、という疑問も湧いてくる。幸せが何であるか、その答えは、今に至っても私には分からないままだ。おそらくいつまで考えてもその答えを見出すことはできないかも。結局のところ、幸せというのは明確な定義などないのだろう。人が幸せだと感じていれば、その人は幸せなのだし、反対に幸せじゃないと思っているのであれば、その人は幸せではないのだろう。その人がどう感じているか、それだけのことなのかもしれない。つまり、人を取り巻く環境や状況がその人を幸せにするのではなく、人が置かれている状況をどう捉えるかが人を幸せにもするし、不幸にもするのだろう。水が半分入っているグラスを見て、まだ半分残っていると考える人は幸せな人だろうし、半分もなくなったと考える人は幸せな気分にはなれないだろう。まったく同じ状況でも、それをどう捉えるかがその人を幸せを左右すると言うことか。

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赤ん坊でさえ

神がなさった良いこと。今ひとつは、人は罪人であると教えてくれたこと。

これを原罪という。すなわち、すべての人は生まれながらにして罪を負っているということだ。しかし、本当に人は生まれついて罪を犯す性質があるのだろうか。ふと、そう感じたりすることがあるのは、私だけではないだろう。例えば、生まれて間もない赤ん坊の姿や、その澄んだ瞳を見たりすると、まさしく純真無垢とはこのような小さなもののことなのではないか、と思ったりするのだ。それにしても、赤ん坊の瞳は、なぜあのように澄んで見えるのだろうか。世の中の邪気にまだ触れていないから澄んでいるに違いないという先入観があるから、そのように見えるだけなのだろうか。それとも、赤ん坊の目はまだ発達途上にあり、うまく涙を流すことができないので涙目でいることが多く、その様子が成長した子供や大人の目とは違い「澄んでいる」と見えるのだろうか。

さて、本当に赤ん坊は、その澄んだ瞳が現すように、罪も穢れも知らぬ、純真無垢な存在なのであろうか。これは海外での話だが、赤ん坊が本当に悪を知らぬかを確かめるために、ある実験をしたことがあるそうな。まず、赤ん坊にぬいぐるみを使った劇を見せたそうだ。その劇では、困っているぬいぐるみを助ける親切なぬいぐるみと、困っているぬいぐるみをさらに困らせるいじわるなぬいぐるみを登場させ、劇を見せた後に、赤ん坊にぬいぐるみを選ばせるというものだった。すると、多数の赤ん坊が親切なぬいぐるみを選んだそうな。研究者たちが導き出した考えは、何も教えられていない赤ん坊でさえも、何が良くて、何が悪いかを知っているのではないか、ということだった。
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迷いのある者

義人はいない、ひとりもいない。聖書のどこだったか、そのようなことが書いてあったと思う。そうだ、ローマ人への手紙だった。正しくはこうだ。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3章10~12節)たしかに、私もこのことばには納得である。いや、誰かのことを思い浮かべそう思うのではなく、自分自身を顧みたときにそう感じるのだ。私は自分のことを正しい人間だとは思わない。それどころか、キリストを救い主として受け入れて二十数年経とうかというのに、まだまだこの世界の様々なことに心を奪われてしまう。いや、むしろ信仰を持った最初の頃の方が、今よりもマジメだったかもしれない。

もし理想を追求するのであれば、ここで悔い改めて、真理を得て、神を求め、善を行うようになるべきなのだろう。だが、実際はそうではない。現実は、悔い改めるどころか、神を求めず、自分の願いをどうすれば実現することができるかと考え、善を行うと言っても、それは独善的な考えでしかなかったりするのだ。そこで気づいて後悔するのなら、まだ許してもらえるのかもしれないが、ふん、だからどうした、生まれついての罪人なんだから仕方ないじゃないか、と開き直ってしまうのだから、どうにもタチが悪い。
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