タグ : 創世記

エジプトを後にする

「七日間、あなたは種を入れないパンを食べなければならない。七日目は主への祭りである。種を入れないパンを七日間、食べなければならない。あなたのところに種を入れたパンがあってはならない。あなたの領土のどこにおいても、あなたのところにパン種があってはならない。」(出エジプト記13章6~7節)エジプトから解放されたばかりのイスラエルの民に、モーセはこのように教えた。またこのようにも言っている。「すべて最初に生まれる者を、主のものとしてささげなさい。あなたの家畜から生まれる初子もみな、雄は主のものである。ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。」(同12~13節)エジプトを出てからまだそれほど経っていなかっただろう。もしかしたらエジプト王の軍勢が彼らを追ってきているかもしれない(実際、その通りなのだが)、そのような非常の時であったかもしれないが、これだけはどうしても伝えておく必要があると感じていたのかもしれない。そもそもこれはモーセが思いついたことではなく、神がモーセに教えたことだったと考えることができよう。

まず最初に、神はモーセにこのように言っている。「イスラエル人の間で、最初に生まれる初子はすべて、人であれ家畜であれ、わたしのために聖別せよ。それはわたしのものである。」(同2節)このような神からのことばを受けて、モーセは民に教えはじめた。

続きを読む

食い尽くされる

「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。』」(出エジプト記10章3~5節)モーセとアロンはエジプトの王パロにこのように警告をした。彼らの言うことは必ず現実のものとなることを、この頃には誰も疑うことがなかっただろう。皮膚病に苦しみ、雹の嵐に痛めつけられ、今度はいなごの大群がやってきて残された僅かな食料さえも食いつくすという。ナイル川の肥沃な土地で多くの作物を収穫することのできたエジプトは、これまで食料に困難するということはなかったのだろう。それだけ恵まれていたのである。

しかし振り返ってみれば、このようなエジプトの繁栄も、イスラエルの神の恵みによるところがあったのではないか。モーセの時代よりもっと昔のこと、神は不思議な方法でヨセフをエジプトに遣わし、彼をエジプトのうちで地位のある者として立たせ、彼の働きによってエジプトは豊かな国になったではないか。そして飢饉で苦しむイスラエルの民を救うことになったということも忘れてはなるまい。(創世記39~45章)そう考えると、イスラエルの民もこの地におらず、イスラエルの神も存在していなかったとしたら、エジプトが栄えるという可能性は、もっと低かったかもしれない。それこそモーセの時代に至ることなく飢饉で滅んでしまっていたかもしれない。

続きを読む

神の契約

「わたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。」(出エジプト記6章4~5節)一度はイスラエルの民に受け入れられたものの、今は彼らからの信頼を失ってしまったモーセは、また同時に神のなさることに疑問を抱いてた。おそらくモーセは進退窮まって途方に暮れていたであろう。彼に味方するものはイスラエルの民にはいなかったであろうし、当然ながらエジプトの民のうちには皆無だったに違いない。わずかに彼の妻と子供たち、そして兄のアロンがそばにいたくらいであろう。しかしこのような状況では、彼らもモーセにとっては慰めでしかなかっただろう。誰一人として現実的な解決策を示すことはできなかった。追い込まれたモーセは神を頼るしかなかった。そのような彼に神は前述のように仰った。

神は昔、モーセが生まれるはるか前に、アブラハムとこのような契約を交わした。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」(創世記15章18節)またアブラハムの子イサクにはこう言っている。「それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」(同26章3節)そしてさらにその子のヤコブには夢の中に現れて、こう伝えている。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。」(同28章13節)三世代に渡って、神はアブラハムの家とこのような約束をしている。これは神の確たる意思のあらわれであろう。それはアブラハムの家にとって大事なことであるとともに、神にとっても重要な意味を持っていたのかもしれない。

続きを読む

神の名は

「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」(出エジプト記6章1節)イスラエルの民がエジプト王の命令によって、これまで以上の労働を課せられたとき、人々の不満はモーセとアロンに向けられてしまった。彼らの文句を聞かされたモーセは、なぜ彼らをエジプト人の手から救い出されないのかと神に訴えたのだが、その答えとして神はこのように仰られた。確かに言えることは、神はイスラエルの民を忘れてはいなかったと言うことだ。ただモーセにしてもアロンにしてと、またイスラエルの人々にしても、まだそれがどのようなもので、どのようにしてその日がやってくるのか、まだ分からないと言うことだった。

神の手段が、まだ人には分からないと言うことだけで、なにも神がイスラエルの民を忘れてしまったと言うわけでもなければ、神の代弁者であるモーセ達を責めたことで、彼らに対して腹を立てたというわけでもなかった。神には神のみが知りうる計画があり、それに従ってエジプト王を動かし、人々をエジプトから連れ出すと言っている。もちろんモーセにもはっきりとしたことを知る由はなく、ただ神の言うことを信じることしか彼にはできなかった。もとより彼にはそうする以外の選択肢もなかったに違いない。進むにも行く場所はなかったであろうし、戻るにも帰る場所はなかっただろう。いや、もしかしたらかつてそうしたように、ミデヤンの地まで逃げ帰ることもできたかもしれない。しかしそれを神が知ったらどうなるか、それはそれで不安だったろう。

続きを読む

赤ん坊でさえ

神がなさった良いこと。今ひとつは、人は罪人であると教えてくれたこと。

これを原罪という。すなわち、すべての人は生まれながらにして罪を負っているということだ。しかし、本当に人は生まれついて罪を犯す性質があるのだろうか。ふと、そう感じたりすることがあるのは、私だけではないだろう。例えば、生まれて間もない赤ん坊の姿や、その澄んだ瞳を見たりすると、まさしく純真無垢とはこのような小さなもののことなのではないか、と思ったりするのだ。それにしても、赤ん坊の瞳は、なぜあのように澄んで見えるのだろうか。世の中の邪気にまだ触れていないから澄んでいるに違いないという先入観があるから、そのように見えるだけなのだろうか。それとも、赤ん坊の目はまだ発達途上にあり、うまく涙を流すことができないので涙目でいることが多く、その様子が成長した子供や大人の目とは違い「澄んでいる」と見えるのだろうか。

さて、本当に赤ん坊は、その澄んだ瞳が現すように、罪も穢れも知らぬ、純真無垢な存在なのであろうか。これは海外での話だが、赤ん坊が本当に悪を知らぬかを確かめるために、ある実験をしたことがあるそうな。まず、赤ん坊にぬいぐるみを使った劇を見せたそうだ。その劇では、困っているぬいぐるみを助ける親切なぬいぐるみと、困っているぬいぐるみをさらに困らせるいじわるなぬいぐるみを登場させ、劇を見せた後に、赤ん坊にぬいぐるみを選ばせるというものだった。すると、多数の赤ん坊が親切なぬいぐるみを選んだそうな。研究者たちが導き出した考えは、何も教えられていない赤ん坊でさえも、何が良くて、何が悪いかを知っているのではないか、ということだった。
続きを読む