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神のキリスト

「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」(ルカの福音書9章18節)

そもそもイエス・キリストとは何者なのであろうか。すでに手元に聖書があり、知りたいと思うことを知るすべが、あらかじめ備えられている今の時代に生きる私たちにとっては、さほど難しいことではありまい。ひとことで言ってしまえば、信じる者にとっては救い主であり、そうでない者にとっては歴史上の人物、クリスマスの原因となった人、キリスト教の開祖、紀元前と西暦の区切りを作った人、という程度かもしれないが、それでも知ろうと願えば、その方法は聖書という形ですでに完成されている。だが察するに当時生きていた人々には、仮にイエスに実際に会ったことがあるにしても、彼が本当は誰であるかということは、彼らなりに考える必要があっただろう。もちろん人の考えることなので、それが必ずしも正解であったかどうかは如何とも言い難い。とはいえ、人々の言葉というものは、彼らの理想を映すことが多いものである。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」(同19節)

バプテスマのヨハネにしても、預言者エリヤにしても、昔の預言者にしても、確かに神に忠実な者たちであったろう。彼らは神の前に正しく、神のしもべとして立派に生きた人々であることに疑いはない。しかし、ここに名前を連ねた人々はイスラエルの王ではなかった。そうではなく、来たるべき王のために道を用意する者、人々に王の訪れを告げ知らせるのが目的であって、王その人ではなかった。だとすればまだ人々は救い主であるイエスに会っていながら、まだ見ぬ救い主の訪れを待ち望んでいたのではないか。
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死んでも生きる

気付いてみれば、今年もまたイースターがやってきた。毎年この時期になるたびに思うのだが、クリスマスは世間一般に広く知られ、受け入れられているのだけれども、イースターは今ひとつ人々に知られていないようである。まぁ、クリスマスは年末に近いこともあるし、長期休暇を目の前にして、何だかんだと人々の気持ちが高ぶっている時期と重なっていることもあって、多くの人たちが楽しみにしているようである。それに比べて、イースターの知名度が低いことは否めない。考えてもみれば、寒い冬が終わり、暖かい春を迎える時でもあり、桜の咲く季節とも重なるし、新年度の始まる時期でもあるので、それなりに人々の思いは盛り上がっているはずなのだが、だからと言って、この季節にイースターを連想する人はあまりいないというのが実際である。

かく言う私自身も、つい最近まで今年のイースターが4月5日であることをすっかり忘れていたのだから、あまり偉そうなことは言えないのだが……あ、そういうことか。クリスマスは毎年12月25日に決まっているから覚えやすいけれども、イースターには決まった日付というものがない。過ぎ越しの祭りの翌々日の日曜日であるとしか決まっていないわけだから、これでは、いつまで経っても人々からは覚えてもらえないだろう。そもそも過ぎ越しの祭りが何であるかを知っている人は、極めて少数派であろうし、なおかつ毎年の過ぎ越しの祭りが何月何日の金曜日であるかを知っている人は、さらに少ないであろう。そう考えてみれば、イースターが知られていないのも、仕方がないのでは、と思えてくる。
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ついて行くには

今更こんなことを言うのもおかしいかもしれないが、聖書というのは難しい。ざっと読んだくらいでは、さほど難しいことを書いていないと思えるような箇所があったとして、それは並んでいる単語のひとつひとつの意味が単純なだけであって、それが連なってひとつの節、ひとつの章になってくると難しくなるのではないだろうか。ただなんとなく読んでいるだけだと、そのような文章さえも、さほど難しいことを言っていないように思われてくる。そして別の機会に、同じ箇所を読んでみると、理解できなかったりするのだ。さて、私が難しく考えすぎてしまうから難しくなるのか、それとも私が適当に読んでいたから簡単に思えてしまったのか、おそらく後者であろうと思う。まぁ、どれだけ私が聖書を読むのに集中していないことがあるのか、ばれてしまいそうである。

それはそうと、イエスはたとえを用いて弟子たちや、集まってきた人々に教えることが多かった。やはりその内容には難しいところがあっただろう。イエスの語ったことすべてが聖書に記録されているわけでもないだろうから、果たして実際に彼が何をどのように語ったのかは分からないが、もしかしたら、礼拝中にうとうとしてしまう私のような、注意力散漫な者でも理解できるように話されたこともあったかもしれない。うーむ、是非ともイエスが語るのを聞いてみたいと思うのであるが、残念ながらイエスはすでに地上にはいないので、それは無理なことだろう。
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人として生まれ、人として死に

今年もまたイースター、すなわち復活祭がやってきた。毎年感じることなのであるが、私にとってはどちらかと言えば、クリスマスよりもイースターの方が心の奥底に重たく響くものがある。もちろんクリスマスが重要でないと言っているわけでもないし、クリスマスが嫌いだと言っているわけでもない。なぜそうなのかと聞かれても、自分でも本当の理由というのが正直なところよく分かっていない。もしかしたらクリスマスが広く一般に知られ過ぎて、本来の意味を考えずに浮かれて騒いでいるだけの世間の有様にうんざりしているだけかもしれない。とは言っても最近はイースターも一般に知られるようになってきているので、クリスマスのように俗っぽくなってしまうのも時間の問題かもしれない。まぁ、今からそのようなことを心配してもしようのないことかもしれないが。要するにこういうことだろうか。世の中の浮かれた雰囲気などに邪魔されることなく、復活祭の重要さについて考えることができるから、その分だけこの日は私にとって特別なものと感じているのかもしれない。日常の中でキリストの復活を振り返ることのできる素晴らしさとでも言おうか。それとも信仰的な視点から、クリスマスよりもイースターに何か感じてしまうのだろうか。たしかにそれもまた言えることかもしれない。

ところで誰でもこの世界に生きている限りは誕生日というのがあるはずだ。この世に生まれ出てこない限りは、この地上に存在することすらできないのは明白である。クリスマスは救い主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを覚えて、祝うという意味では大切かもしれない。しかしながら誕生というのは誰でも経験することであって、キリストに限られた特別な出来事ではないだろう。
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復活なくして救いなし

クリスマスは有名だが、イースターの知名度はいまひとつ。さて今さら言うまでもないだろうが、クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日である。ところがクリスマスが有名な理由がそこにあるのかというと、どうも疑わしい。クリスマスと聞いてキリストを思い浮かべる人とサンタクロースを思い浮かべる人と、どちらが多いのかを調べたことはないが、私が推測するにおそらく後者であろう。なぜならキリスト教が根付いているとはお世辞にも言い難い日本でも、クリスマスだけは年中行事として人々に覚えられ ているからだ。本来の意味がすっかりかすれてしまい、脇役でしかないサンタクロースやプレゼントやケーキが主役になっていることを考えると、人々の頭の中に何があるのかは推して知るべしである。

一方イースターはどうかといえば、名前くらいは聞いたことがあるか、さもなければ全く知らないという人もいるだろう。イースターとは復活祭のことであり、復活祭とはすなわちイエス・キリストが死からよみがえられたことを祝う日であるということを知る人は、教会に行っている人以外では少数であろうと思う。
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