タグ : 奇跡

熱を叱る

テレビのニュースで先日放送されていたことだが、コーヒーを飲まない人よりも、コーヒーを飲む人の方が病気になりにくいとの統計結果が出たそうだ。病気になりにくいと言っても、その違いは1%にも満たないので、まぁ、考えようによっては誤差程度の違いでしかない。どうやらコーヒーに含まれているカフェインが影響しているのかも、と一部の研究者たちは考えているらしい。しかしカフェインが影響するのであれば、同じくカフェインを含んでいる紅茶や緑茶でも同じ結果になるのかもしれない。さて、これは専門家ではない私の素人としての考えでしかないが、カフェインうんぬんだけではなく、もしかしたらコーヒーを飲む人のライフスタイルが結果に影響を与えているのかもしれない。例えば、仕事の合間にコーヒーを飲むくらいの余裕があるなら、ストレスを感じても適度に発散しつつ日々過ごすことができているのではないか、というようにだ。

さて、病は気からと言うが、気分でその人の健康状態が左右されるというのは、あながち間違いでもないのだろう。実際、何の影響も効果もない粉砂糖を薬と思い込んで服用することで、症状が改善することをプラシーボ効果と呼ぶこともある。医者に診てもらったとか、薬を飲んだとか、具体的な行動を伴う無意識の自己暗示のようなものだろうか、もしかしたら実際の薬効よりも、そのような精神状態が人の回復を早めたりするのかもしれない。加えて信仰を持つ人たちは、神仏に対して病からの回復を祈念するものである。クリスチャンに限らずとも、洋の東西を問わず、いつの時代も行われていたものであろう。これもある種の自己暗示、もしくは他者暗示のようなものであろう。
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マリヤの賛美

起こり得ないことが起きたという奇跡を、神の御使いから知らされた、いや、知らされたどころか、自らが体験することになったマリヤであるが、その後どうしたであろうか。普通であれば、何か良いことが起きたら、誰かに知らせたくなってしまうものであるが、状況が状況だけに、彼女は誰にも話さなかったことだろう。もし近所の人に話してまわったとしたら、可哀想に気が変になってしまったに違いない、と思われたことだろう。それどころか、婚約者であるヨセフに呆れられて、結婚が取りやめになってしまうかもしれない。それだけは避けたかったことだろう。さらには、未婚であるのに妊娠していることがばれたりでもしたら、たとえそれが神の御力によるものだったとしても、果たして人がそれを信じるだろうか。人は他人の良いところよりも悪いところを見ようとするものであろう。それこそ、彼女のことを不道徳の女として、石を投げつけてしまうかもしれない。などと、色々と考えたのだろう。彼女は御使いガブリエルから告げられたことを、誰にも言わなかった。たった一人を除いては。

ルカはその時のことを、このように記述している。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」(ルカの福音1章39~40節)彼女は知り合いのエリサベツにだけは、自分の身に起こったことを知らせようとしたのかもしれない。なぜならエリサベツも似たような奇跡を体験していることを、マリヤは知っていたからで、もしかしたら話しを聞いてもらい、理解してもらえると考えたのだろう。そして、エリサベツにお祝いの言葉を伝えたかったのかもしれない。
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ふたつの奇跡

私の思いつきと言ってしまえばそれまでかもしれないが、奇跡というものには二つあるのではないだろうか。

子供が生まれぬままに年老いたザカリヤとエリサベツの間に、子供が授けられたとことは、奇跡と呼ぶことができるだろう。まずこれをひとつの奇跡とする。ところでエリサベツのことがあってから、六ヶ月経った頃のことである。「御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」(ルカの福音1章26~27節)先にも見たように、ガブリエルは「喜びのおとずれ」(同19節)を告げるためにやってきたのである。とは言え、マリヤは今初めて御使いに出会ったのだから、そのことを知らなかったに違いない。「御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」(同28節)
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おできになる

おできになる、と聞くと、どうしてもあの「おでき」を連想してしまう。いったい「おでき」と「にきび」とはどこが違うのだろうか。まとめて言ってしまうえば、どちらも「吹き出物」であろう。そんなどうでもいいことを考えていると「ウオノメ」と「イボ」は何が違うのだろうかという疑問も浮かんでくる。どちらも皮膚が硬くなったものに違いはないだろうに。

ときにイボと言えば、私の左膝のちょっと下の辺りに、かれこれ十年以上も前から、それこそ私が学生の頃からだから、もしかしたら二十年近くも前からかもしれないが、デカイのがひとつ居座っていた。学生の頃に、医者に通って液体窒素で取ってもらったこともあるのだが、治ったかと思ったら、また復活したので、医者に通うほどのことでもないかと思いそのまま放っておいたのである。さて、何年かそのままにしておくと、イボが私の一部のように思えて、というよりも、実際私の体の一部であることに違いないのだが、あまり見てくれの良いものではないにも関わらず、妙に愛着が湧いてくるというか、かわいく思えてくるのだから、人の心というのは妙なものである。自慢じゃないが、自慢したくなってくるから不思議なものだ。何度か医者に行ってはどうかと勧められたこともあったが、私に言わせれば、そんな可哀想ななことはできないのである。
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キリストのため息

ため息というのは、一般的にあまり好ましい印象を持っていない。ため息をつく本人にとっても愉快なものではないし、それを聞かされる周りの人たちにとっても心地よいものではない。それはため息という言葉が否定的な意味を持っているからなどというような、言葉で説明できるような理由からではないであろうし、またため息は不快なものであると教えられたからでもないだろう。それは頭で理解するようなものではなく、おそらく経験から気付いて、分かっていることなのかもしれない。誰しも楽しいからため息をつくという人はいないだろう。嫌なことがあった時、気にいらないことが起きた時、物事に納得がいかない時、ため息とはそのような時につくもの、いや、ついてしまうものである。とは言っても、全てが全てネガティブな状況とは言い切れないだろう。例えば、おいしいものをたらふく食べた後にも、深い息をつくことがあるが、あれは例外だろう。それともあれは、食べるだけ食べ尽くしたことへの後悔の現れなのだろうか。いや、さすがにそれは考えすぎか。

何はともあれ、ため息というのはなるべくなら避けたいものである。自分でつくのも気が滅入りそうですっきりしないし、人がつくのを聞いたらこちらの気分までが落ち込んでしまいそうになる。私としては可能な限り、人前でため息をつくことのないように心掛けているつもりである。果たしてそれが実現できているかどうかは、自分ではなかなか分からないものかもしれないが、少なくともそれが他人に対する礼儀というものであろうと考えているからだ。
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