タグ : 感謝

良い神

神がなさった良いこと。今ひとつは……いや、ひとつふたつと神のなさったことを数えていくのはきりがないのではないか。

この一年を通して神のなさった良いことについて考えてみたが、改めて振り返ってみると神のなさる良いわざは、countless(数え切れないもの)であり、limitless(制限がないもの)であり、unmeasurable(はかることのできないもの)であるということだ。一方で神が悪いことをなさったかと考えてみると、これが何ひとつとして思い浮かばないのである。

たしかに私の周りでは何も悪いことが起きていないかと言えば、そういうわけでもない。それどころか、何かと私を悩ませたり、不安に感じさせたりするようなことの方が多いのではないかと思えてしまう。果たして、それでも神は何も悪いことをしないと言えるのだろうか。悪いと思えるようなことを見てみると、神がそれを起こしているというだけの理由を見出すことができないのである。それは私が信仰者であるがゆえに、良いことはすべて神のおかげであると考え、また悪いことはそうではないと思っているのだけなのではないか、人はそう言うかもしれない。確たる根拠があるわけでもないし、具体的な証拠を見せることができないから、そのように言われてしまっては、何とも反論のしようがないのだが。

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数えてみよう

新しい年が始まった。新しい一年の始まりにあたり、その年の目標を立てるというのが一般的な日本人の考えることであろう。かく言う私自身もここ数年ほど、体重を減らすという目標を立てていたものだが、ようやく昨年はその目標を達成することができた。ということで、これ以上体重を減らす必要もなくなったわけだし、何か新しい目標を見つけないとなぁと思う新年である。さて、どうしたものか。まぁ、それについては、しばらく考えてみることにしよう。

ところで一般的な日本人としてではなく、キリスト者として新しい一年の始まりを迎えて、ふと思い出したがある。たとえば教会などでは、その一年の主題となる聖書の箇所、いわゆる年間聖句というものを決めていたりもするが、同じことをひとりの信仰者として、やってみるのはどうかということである。もしかしたら、似たようなことをやっている方々は大勢いるかもしれない。いや、私が気付くのが遅すぎるではないかと言われてしまうかもしれないし、そう言われたとしても反論のしようがないのだが。そんな私の心に浮かんだのは、このような聖書の箇所である。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103篇2節)
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マグロのように

今年も残すところ、後わずかである。振り返ってみると、慌ただしい一年だったような気がする。後半は、これを書いている余裕すらなかったほどに、何だかんだと忙しかったような。それでは、何をしていたのだろうかと考えてみても、これをやっていたから忙しかったとか、あれをしていて時間を取られていたとか、一つひとつ具体的なことを挙げることができない。出張が多く、仕事も忙しかったというのも事実であるが、それだけではなかったような気がする。何かに追われていたのか、それとも何かを追っていたのか、いずれにせよ只々慌ただしく過ごしていた。暮れもこの時期になりようやく落ち着いてきたようだ。もっともこの平安も今だけのことであろう。年が明けたら、また忙しく過ごしているに違いない。慌ただしい日常は、今しばらく続きそうな気がする。

そのようなことを考えていたら、自分の姿がマグロのように見えてしまう。いや、刺身になって皿の上に並べられているマグロではなくて、回遊魚としての生きているマグロの方である。海にいるマグロは泳ぎを止めると死んでしまうから、寝ている間でさえも泳ぎ続けなければならないという。もちろん、マグロみたいに動き続けていたいわけではないし、そもそも体がもたない。地上で暮らす人間が寝る間も惜しんで動き続けていては、体調を崩すか、悪くしたら死んでしまう。さすがに寝ている間は体を休めることはできるが、目が覚めている間は常に何かに追い立てられているような気がするのだ。寝ている間は別としても、起きている間は私自身の思いにかかわらず常に動き続けていないといけない、そんな自分がなんかマグロみたいだなぁ、と思うのだ。
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二枚の銅貨を投げる

私がキリスト者になってからというもの、神社にお参りに行くことはなくなってしまった。では、キリスト者になる前は、ちゃんと神社にお参りに行っていたかというと、実はそういうわけでもない。まぁ、19歳の時にアメリカに行ってしまったからというのも理由かもしれないが。それ以前の記憶では、せいぜい正月に初詣に行ったくらいか。そして初詣と言っても、元旦にではなく、数日くらい経ってからだったような気がする。ところで神社にお参りと言えば、ケチな私はお賽銭を連想してしまうのだ。お賽銭はいくらぐらいが適当なのか。やはりご縁があるようにということで、五円がいいのだろうか。年始のニュースなどで、お賽銭箱の中身を神社の職員の方々が整理している場面がたまに放映されるが、そこで一万円札とかを見ると、結構な額を投げている人がいるのだなぁと、ちょっと神社がうらやましくなってしまう。やはり額は多い方がいいのだろうか。

ところで実際のところ、額はあまり重要ではないらしい。一説では、お賽銭とは「神様」(聖書のじゃないよ)への感謝のしるしであるらしい。またある説では、自らの汚れや邪気を金銭に託して清めるという意味もあるとか。キリスト者の視点から見れば、供え物としてのお賽銭と、いけにえとしてのお賽銭という考え方があるように思われる。いずれにしても、願いをかなえてもらいたいがために金銭で「神様」を買収するという意味はないらしい。願い事の大きさと金額は比例しないということか。
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十人のうち一人

駅から自宅に向かう階段を上りきったあたりの、ちょうど階段の手すりの向こう側の斜面のところに、なぜかスポンジが落ちている。スポンジと言うからには、本当にどこにでもある一般家庭の台所で使うような、誰もがまっさきに思い浮かべるであろう、あの四角いスポンジなのである。何も特別なものでもない。洗車するのに使う大き目のものが屋外に落ちているのであれば、誰かが落としたのが風で飛んできたのかもしれないと、その来歴もなんとなく想像することもできるが、食器を洗うためのスポンジが落ちているのである。一体誰が何のために、階段脇の斜面に置いたのだろうか。それとも、近所の家の台所の窓から落ちたのが、転がってきたのだろうか。だが、その近辺にそれっぽい家もないし、その説も考えにくいから、もしや、どこかの台所での使役に耐え兼ね、夜中に逃げ出したものの途中で力尽きてしまったのか……謎は深まるばかりだ。

いやいや、たかが落ちているスポンジごときにそんな大げさな物語を考えてもしようがない。誰かがごみに出そうとしたのを落としたとか、きっとつまらない理由だろう。それにしても、最初にそこにスポンジが落ちているのを見つけたのは、半年くらい前のことだろうか。それが今でもそこにあるのだから、それはそれで大したものである。誰かが拾って捨てるわけでもない。そんな小さなスポンジの存在を誰も気にしていないのか。はたまた気付いたとしても、わざわざ処分しようなどと考えないのだろうか。まぁ、気付いて何をするわけでもなく、ただ成り行きを見ていた私も同じように無責任かもしれないが。とはいえ驚くに値するのは、この半年の間どれほどの強風にも飛ばされずに、また大雨が降っても流されずに、同じ場所からわずかにも動いていないということだ。根を下ろすというが、まさしくスポンジに根っこが生えてしまったかのようである。
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