タグ : 戒め

十点満点中、何点

神がなさった良いこと。今ひとつは、神が十戒を与えられたということ。

「え、本当に?」と疑われてしまうかもしれない。なんせ私のような中途半端な信仰の持ち主が言っているのだから、信用されなくてもしかたない。いや、今さら真面目な信仰者のフリをしているわけでもなければ、ましてや信仰の篤い人間を目指そうと無理にそのように自分に言い聞かせているわけでもない。改めて神のなさったことを振り返ったときに、ふとそのように感じたまでだ。

ところで英語のことわざに、このようなものがある。”Rules are made to be broken.”訳すと「決まり事は破られるために作られている」と言うことになる。つまり「決まりは守らなくても構わないし、破ったとしてもしようのない」ということになる。なんだか約束事を守ることができなかった、もしくは守ろうとさえしなかった人たちの言い訳のようにも聞こえてしまう。誰が最初に言い始めたことわざなのか分からないが、当たらずとも遠からずと言ったところだろうか。
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絶滅危惧種

先日、世界に三頭しかいないというキタシロサイの一頭が死んだ。死んだのはこの世に生存していた最後のオスだったそうな。残りの二頭はメスなので、この時点で絶滅することが確定した。スイスに本部を置く国際自然連合によると、おおよそ二万種の生物が絶滅危惧種として認定されているそうだ。種が絶滅するのは自然の流れのなかではやむを得ないことなのであろう。今でこそ人類は繁栄を誇っており、地球上で最も優位に立っている存在であると言っても言い過ぎることはないだろうが、そんな人類でさえいつかは「絶滅危惧種」になってしまうという可能性も否定はできないだろう。急激な気候変動、巨大火山の噴火、小惑星との衝突、致死率の高い感染症、等々……未だかつて人類が遭遇したことのない自然災害が発生するかもしれない。もしくは人類が自らの過ちから何らかの事象を引き起こし、自らの破滅を導いてしまうことも、自然災害よりも確率は低いかもしれないが皆無ではないだろう。

その一方で、技術は日々進歩している。人類の英知をあわせれば、これらの問題を回避することも不可能ではないだろう。気候変動を抑止する方法を見出せるだろうし、火山の噴火を予測することができれば、事前に安全な場所に避難できるかもしれない。地球に衝突しそうな物体があれば、その軌道をずらすこともできよう。あらゆる疾病に対する治療方法も見出されるかもしれない。また人類も過ちを犯すことなく共存共栄の道を歩んでいるかもしれない。場合によっては、不死とは言わないまでも不老長寿を達成しているだろう。やがては人類は永遠に存在し続けることができるようになるのではないか。そう思えてしまう。しかし、終わりは必ずやってくる。50億年後、太陽の寿命が尽きる頃、地球は太陽に飲み込まれてしまう。火星に逃げても無駄である。木星、土星、まぁ、少しは生き延びられるかも。だが、太陽が死んでは、人類は生きていけない。もっとも、その時までに別の太陽系に移住していれば、話は別だが。
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良い木、良い倉

何が良くて、何が悪いのか。答えが分かるようで、分からないような、何ともスッキリしない気分である。それもそのはず、世の中の多くのことは、良い悪いの二元論で簡単に説明することはできないからだと思う。例えば、戦争は悪で平和は善であるというのが一般的な見解であろう。もちろんそのこと自体に異論はないが、そこで議論を終えてしまうことには、いささか納得できない。別の視点から考えてみれば、戦争が善となるだろうし、平和が悪にもなることもあり得るだろう。何でも善と悪の二つに分けてはっきりさせようとするのなら、ずいぶんと偏った考え方の持ち主になってしまいそうだ。そうやって何事も簡単に結論づけてしまうのは、物事を深く考えることをやめてしまうことにもなる。そうなると、周りの言うことに流されるだけの主体性のない存在になりかねない。

ところで、善と悪について、たとえの中でイエスはこのように言っている。「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。」(ルカの福音6章43節)何が良くて、何が悪いのか、それが分からないと、イエスの話していることを理解するのは難しい。残念なことに、この話の前後においてイエスは、良いことまた悪いことについて、それらが何であるかを明確には説明していない。はっきり言ってくれたら、もっと分かりやすいだろうにと思うのであるが、仕方がない。
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追い付く神

もしも、の話である。もしも未信者の私と信仰者の私が会話をするとしたら、一体どのようなことを話すのだろうか。とは言え、元来無口な人間が二人集まったとしても、たいして話は弾まないだろうと思うのだが、最初に書いたように「もしも」の話である。そうでないと、話を先に進めることができない。さて生まれつきの信仰者でもない私は、かつては信仰とは無縁の生活を送っていたものである。そう考えると、信仰者の私は未信者の私がどのような人間であるかをすでに知っているのだから、あれこれともう一人の私に質問することはないだろう。だが未信者の私から見れば、信仰を持っていると私のことが不思議に思えてならないだろう。何だかんだと聞きたいことがあるに違いない。おそらく、その一つはこのようなものに違いない。「何が楽しくて、日曜の朝早くに起きて、教会なんかに行くんだ?」

「教会に行くことの楽しさなんて、信仰を持ってないお前なんかには分からんだろう。」いやいや、そんな無愛想な回答はしないと思う。たしかに私が無愛想なことを否定はしないが、こんな答えをするわけがない。なぜなら信仰者である私自身が、まったく同じ質問を自分に向かってすることがあるのだから。つまり、正解が分からないのだ。もし明確な答えを持っているのであれば、おそらく自問することもないであろう。では改めて考えてみよう。「何が楽しくて、休みの日の貴重な時間を犠牲にしてまで、教会に行くのだろうか。」
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終わりあり

物事にはすべて終わりがある。私もそうであるが、人というのは良くも悪くも終わりが気になってしまうものであろう。たとえば我が家では、こんな具合だ。娘たちは連休の最後の日になるたびに「あーあ、休みも終わっちゃうのかぁ、残念」と口にしているし、それを聞きながら私は「ふぅー、ようやく休み終わりか」と思うのである。終わりを期待して待つ人もあれば、失望の思いで待つ人もいるということだ。ついでながら、巷の人々は世界の終わりが気になるらしい。前世紀には、ノストラダムスの大予言で盛り上がったりしたものだが、結局世界の終わりはやってこなかったし、今世紀に入ってからは、マヤ暦のカレンダーが終わる2012年に世界が終わると映画まで出来たが、やはり何も起こらなかった。なぜだか人は物事の終わりが気になってしかたがないものらしい。

ところで、世界には果たして本当に終わるのかどうかと思われる物事も多く存在する。形ある物いつかは壊れると言われているが、形ある物でも永遠に残りそうなものが数多くあるというのも、また事実である。例えば、エジプトのピラミッド。有名な三大ピラミッドの他に、現存するものだけでも百を超えるそうだ。それこそ、モーセが生まれる前の時代のものもあるかもしれない。日本でも、紀元7世紀の建立の法隆寺五重塔は世界最古として知られている。ピラミッドにしても、法隆寺にしても、ユネスコの世界遺産に登録されているほどで、世界的に認知されている存在だ。古いものでも、ちゃんと残っているではないか。
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