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キリストの洗礼

立春過ぎて、暦の上では春を迎えた。とはいえ、まだまだ吹く風は冷たいし、手を洗う水も冷たい。コートやマフラーを手放すにはまだ少し早いようだ。しかし寒い日々が続く中でも、ふと春の訪れを感じることもある。なんだか天気予報のお姉さんの言いそうな言葉になってしまったが……そも、春の訪れとは一体どのようなものなのだろうか。それを言葉で説明するのは難しい。なぜなら「春の訪れ」とは、これこれこのようなものである、という具体的な目安というものがないからだ。結局のところ、いつどのように感じるのかはその人次第なのである。立春頃から感じる人もいれば、まだまだ感じられぬという人もいるだろう。早い遅いはあるだろうが、必ずどこかのタイミングで誰もが感じるはずである。さもなければ、春がこないまま夏になってしまうことだろう。

それはさておき、信仰者にとっては洗礼を受けるというのが、自らの人生における、季節の変わり目というか、ひとつの区切りであると言えよう。では季節の変わり目を感じるように、人は人生の転機を感じることができるのだろうか。やはり人がお互いに違うように、これも人によって感じ方は様々なのだろう。信仰を告白したことで何かが変わったと感じる人もいるだろうし、すぐには感じないという人もいるだろう。ちなみに私は後者であった。が、私のことはどうでもよい。
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バプテスマ

寒い日が続いている今日この頃である。大人にとっては幸いなことに、子供にとっては残念なことに、積もり積もるほどの雪はまだ降っていない。多大なる期待を込めて、去年のような大雪にはならないだろう、と私は予想している。巷では寒いと布団から出るのが辛い、と言う人が多いようだが、私はそう感じたことがあまりない。それより何が辛いかと言えば、風呂に入ることである。もとより風呂が好きな人間ではないので、この時期冷え切った風呂場に入る行為は苦役に近いものがある。もっとも衛生面を考慮して、ちゃんと風呂には入っているが。そこでふと思い出したのが、アメリカにいた頃、寒い時期に屋外のプールで行われた洗礼式に立ち会った時のことである。真冬ではなかったにしても、枯れ葉が落ちるような時期に、水にドボンとやられるのは、荒行に近いものが感じられてしまう。洗礼を与える方にしても、受ける方にしてもだ。ちなみに私が洗礼を受けたのは夏休みのことだった。それも屋内でぬるま湯の張られたところである。あぁ、だから私の信仰はぬるま湯のような信仰になってしまったのだろうか……。

さて洗礼(バプテスマ)とは、そもそも何であろうか。もちろん実際に洗礼を受けたことがある信仰者、もしくはこれから受けようと考えている信仰者であれば、それが何を意味しているのか分かっているだろうし、仮に信仰は持っていないとしても、この分野に関する知識のある人であれば知っているかもしれない。ちなみに私が理解している洗礼の意味とは、まず水に突っ込まれるところが、キリストと共に死ぬことを意味し、その後水の中に沈むところが、キリストと共に葬られることを意味し、最後に水の中から引き上げられるところが、キリストと共によみがえることを意味している、というものである。
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