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からし種未満

神がなさった良いこと。今ひとつは、神は神を信じる者を見捨てないと約束してくださっていること。

さて聖書にはこのように書かれいてる。ある時、イエスの弟子たちが、なぜ自分たちには悪霊を追い出すことができなかったのかを聞いたときに、彼が答えたことばである。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」(マタイの福音書17章20節)

粒入りマスタードを見れば分かるように、からし種とはとても小さな粒のような種子である。その程度のわずかな信仰があれば、山をも動かすというような、人の考えからすれば、ほぼ不可能に思えるようなことでも為すことができる、とイエスは言っているようだ。それにしても解せないのは、イエスと四六時中一緒に過ごして、その教えることばを常日頃から聞いており、またその行う奇跡のわざを目の当たりにしていながら、なぜ弟子たちは「信仰が薄い」と言われてしまったのだろうか。もとより、彼ら自身にしても、イエスを信じていたからこそ、それまでの慣れ親しんだ生活を後に置いてまで、彼に付き従ってきたのではないか。そのような彼らでさえ、からし種ほどの信仰がないと言われてしまったら、果たして私のような中途半端な者の信仰とは、どのようなものであるかと疑ってしまう。

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神に問う

今まで一年半近く掛けてルカの福音を読んできたが、まだ半分以上も残っている。先は長そうだ。しかし今まで読んできたところから、イエス・キリストについていくらか知ることができよう。彼に関する事実をいくつか挙げてみるとしよう。病に苦しむ人々を癒やしたということ。悪い霊に憑かれた人々を解放したということ。彼の話を聞くために集まった数千の群衆の空腹をわずかなパンと魚で満たしたこと。神の国の訪れという良き知らせを人々に伝えていたということ。そして、彼の身近な弟子たちと信徒たちに、神の権威によって同じような奇跡を行うことを認めたこと。そしてまた、イエスの行いやことばに影響された多くの人々が彼に従っていたのも事実である。しかし、いつの時代でも、どこの場所でもそうであるように、善人が誰からも慕われて敬われるかといえば、そういうわけでもない。これも世の常というものなのだろう。

それにしても、なぜそうなのだろうか。色々な理由を考えられそうだ。もしかしたら、世間のその人への評判や評価に対して、羨んでいるからなのかもしれない。なぜ自分は、その人ほどに認められないのかと。それとも、その人に対する疑いの念を抱いているのかもしれない。あの人は善いことをしているように見受けられるが、腹の中では何を考えているのか知れたものではないと。また、単純に考え方の違いから認めることができないこともあるだろう。自分の食事も持たずに集まった群衆に無料で食べ物を配るなどして、思慮の足りない人々をなぜ甘やかしてしまうのかと。ひょっとしたら、ただ天の邪鬼なだけで、人が良いということに反感を抱いてしまうだけなのかもしれない。
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神を試す

三度目の正直、という言葉があるように、二度まで試みて失敗して、さらに三度目に挑戦するというのは、さほど珍しいことでもあるまい。勉強であっても仕事であっても、はたまた趣味の領域のことであろうとも、何をするにしても目的を達成しようと強く思うのであれば、成功するか、成功までしなくともそれなりに納得のいく結果を得られるまでは、あれやこれやと試行錯誤を繰り返し、やり方を変えたりしながら、努力を続けることだろう。それこそ三度目で結果を得られれば良し。たとえ三度目でなかったとしても、どこかで結果を出すことができれば、めでたしめでたし、である。肝心なことは諦めずに、続けるということであろう。そうかと思えば、引き際も肝心というから、ダメならダメで見切りを付けるというのも必要なのかもしれない。

さて、悪魔もイエスを誘惑すること三度目である。「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。『あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。《神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。》とも、《あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。》とも書いてあるからです。』」(ルカの福音4章9~11節)さすがに今回は「もしあなたが私を拝むなら……」などと露骨なことは言わなかった。さすがにそれでは猛烈に反対されると考えたのかもしれない。それどころか、旧約聖書を持ち出して、イエスを説得しようとしているではないか。実際、悪魔が引用したのはこの箇所のようだ。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」(詩篇91篇11~12節)
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パンだけでなく

腹が減ると私は怒りっぽくなってしまう。やたらと周りのことが気になって、ちょっとでも気に入らないことがあるとついイライラしてしまうものだ。ついでに、腹が減ると集中力もなくなってしまうので、何をやっていても身が入らない。とかく腹が減ると良いことがない。まさしく空腹とは、私にとって憎い相手である。ところがその一方で、腹がいっぱいになると私は気が緩んでしまうのか、どちらかといえば周りのことに無関心になってしまう。ついでに、腹が満たされると眠たくなってしまう。それこそ、鶏の味噌だれとハムカツ定食(プラス、刺身の小皿)を食べた後に、ほどよく暖房の効いた部屋で会議が始まったら、永遠とも思える睡魔との戦いになってしまうのだ。まぁ、幸いと言おうか、不思議と会議が終わる頃には睡魔もどこかへと去ってしまうのであるが。腹八分目がちょうど良い、とは言うが、ダイエットがどうのこうのというだけではなく、生産性の面においても、また精神衛生上もその方が好ましいのかもしれない。とは言っても、やはり腹が減っている時に、目の前に食べ物が出されたら、ためらうことはないだろう。(但し、臓物やヌルヌルネバネバしているのは遠慮させて頂こう。)

さて、イエス・キリストが四十日の間悪魔の試みにあわされ、食べ物をとることなく過ごしていたことは先に見たとおりであるが、その後のことがこのように書かれている。「そこで、悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。』」(ルカの福音4章3節)
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