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愚かさと知恵と

知恵のある人とは、果たしてどのような人たちを示しているのだろうか。確かだと思えることは、私はその中には入っていないだろうということである。私は自分自身の浅薄さというか、知恵の足りなさを十分に承知しているつもりである。もっとも物は考えようで、それを悲観したり、卑下したりする必要はないのかもしれない。私にとって都合の良い見方をするのであれば、自らの愚かさに気付かずに、自分は知恵があると思い込んでいる人々よりは、自分に欠けているものが何かを知っているということになるので、自分が求めるべきは何かを知っているからだ。もちろん、それを求める求めないは、また別の次元の話かもしれないが。

しかし私が悟らずとも言わずとも、人は知恵を求めるべきであるということは、ソロモンが幾度となく箴言の中で繰り返し言っていることである。ところで知恵のある人がどのような人物であるかを知るということは、どうすれば知恵を得るかを知ることになるのではないか。またその反対に、知恵のない者がどのような人物であるかを知るということで、どうすれば知恵を失ってしまうことになるかも知ることにもなるだろう。たとえ今の私に知恵がなくとも、少なくとも知恵のある人がどのような人であることかを知ることで、あわよくば私自身も少しは知恵を得ることになるのではないかと、ちょっとばかり期待をしているわけである。それでは知恵のある人について、ソロモンは何と言っているのだろうか。改めて箴言に目を向けていきたいと思う。
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焦るは損

急がば回れ、ということわざがあるかと思えば、急いては事をし損じる、ということわざもある。焦りは禁物というのは、多くの人が自らの実体験から気付いていることだろう。仕事にしても勉強にしても何事においても、急いでやろうとすれば失敗することが多いのではないか。もとより人は完全な存在ではない。すべてを把握し、あらゆる状況を想定して行動することのできる人などこの世にはいないに違いない。だからこそ人は予定や計画を立てるのではないか。しかし残念なことに現実には、どれだけ念入りに計画を立てたとしても、その通りにならないことも往々にしてある。その念入りさを欠いてしまえばなおのこと、人は細かいところにまで気が回らずに、おおざっぱにしか物事を扱うことができなくなってしまうだろうし、そこからは何ひとつとして良いものは出てこないだろう。

しかしながら「急いては事をし損じる」と言うもの、それでもなぜ人は焦ってしまうのだろうか。私自身のことを振り返ってみると、いくつか理由が思い浮かぶ。そのひとつは、早く目的を達成したいと気持ちがあるからだ。要するに辛抱することがきない、待つことができないのである。もうひとつは、手間を掛けたくないのである。要するに難しいことや頭や体を動かすのが面倒になってしまうのだ。そのような焦る人に向けられているかのような、このようなソロモンの言葉がある。「貪欲な人は財産を得ようとあせり、欠乏が自分に来るのを知らない。」(箴言28章22節)
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明日を守られる神

「明日はどんな日か、私は知らない」という賛美がある。まったくこの賛美の通りで、人は明日どうなるかと知ることはできない。明日はこうなるだろうと予想したり、明日はあれをしようと予定を立てたりすることはあるだろうが、明日に確信を持つことはできない。明日のことや将来のことについて、ソロモンはこのように語っている。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」(箴言27章1節)

未来のことが分からないことは仕方がないことである。そして今後のことをあれこれと考えたり、心配したりするのが人間の常であろうし、それもまたしようのないことだ。しかしそれを悔やんだり反省したりすることはないだろう。ソロモンはそのような人としてのごく当然の感情や考えを、ここで否定しているのではないだろうし、それを非難しているわけでもないだろう。あらためて読み直すと分かるが、ソロモンが戒めているのは、明日を自慢することである。自分では知ることのできない将来のことを誇りにしてはならぬと、注意を与えているのだ。
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怠慢という罪

おそらく誰もが思うことだろうが、愚か者、怠け者というのは、いつの世でも嫌われる存在であろう。罪を憎んで人を憎まず、というのがキリスト者としての理想の姿なのだろうが、申し訳ないが私もこのような人種が嫌いである。もっとも広い世間には乱暴者とか強欲者とかずる賢い連中とか、他人から非難されるような者もあるだろうが、そのような者よりもなんと言おうか……気に入らない。これは聖書に書かれていることでもないし、キリスト者としてふさわしい考え方でもないだろうから、私の個人的な印象と思ってもらっていいのだが、欲が深いとか、腕力に訴えるとか、悪知恵を働かすというのは、何かしら目的を達成するために、どちらかといえば無理無体な手段に訴えているだけに思えるのだ。無法な振る舞いで他人を顧みないのは悪いと言えば悪いだろうし、身勝手かもしれないが、見方によっては目的を達しようという勢いがあるゆえに、「まぁ、それもありか」と納得することもある。しかし愚か者、怠け者というのは、どうもそのような勢いというのが感じられない。ただひたすらに何かから逃れようという様子にしか見えないのだ。

ところでキリストが言うように右の頬を殴られたら、左の頬も差し出すことが正義であるかといえば、必ずしもそうではないと私は思うのだ。もちろん聖書のことばを知っており、その意味を理解しているのであれば、そうすることは正しいに違いない。しかし事を荒立てたくないなどといった消極的な理由で相手の好きにさせるのであれば、それは偽善を隠れ蓑にした怠慢でしかないのではないか。
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人を笑えない

どこの誰が言ったのかは分からないが、他人の不幸は蜜の味というフレーズを聞いたことがある。あまりおすすめできる考え方ではないが、そう言いたくなる気持ちは何となく分かる気がしなくもない。平たく言えば、他人が災難に遭っている間は、少なくとも自分の抱えている問題が小さく思えてしまうか、大変な目に遭っているのは自分だけではないと安心してしまうということだろう。さすがに冷淡でひねくれ者の私であるが、常日頃からそう考えているわけでもない。誰かが大変な目に遭っていれば、ごくまれかもしれないが、同情したり心を痛めたりすることだってある。しかし私よりも恵まれているような人々が痛い目に遭うところを見ると、ざまあ見ろと思ってしまうのも事実である。

しかし人の不幸を笑うというのは、どこか間違っているのではないかと、何となく分かる。もちろんなぜ間違っているのか、と聞かれても答えに窮してしまう。はっきりとした理由があるわけでもない。ただ心情的にそう思うだけだ。ところでつい最近になって気付いたのだが、ソロモンの箴言にも似たようなことが書いてあるのだ。「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。」(箴言24章17節)
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