タグ : 祈り

金曜の夜

金曜の夕方がやってきた。一週間の終わりである。色々と課題は残ったままだけれども、ひとまずそれはそれで置いておくとしよう。一度に全部を片づけることなどできない。時間を掛けて少しずつ片づけていけばよい。ひとまず直近で早々に対処しなければならないことさえ終わっていれば問題ない。積み残しがあったとしても、誰かが著しく困るわけでもなければ、ましてや世界が終わるわけでもない。ということを考えつつ家に帰る。気分転換をしたり、気晴らしをしたり、疲れを癒したり。そんな気持ちになる。たとえば、帰りにデパートの地下でもスーパーでもコンビニでも構わない、何やら気の利いた惣菜でも買って、それを肴にビールかワインか日本酒を少しばかり……あぁ、スモークチーズなんて、どれにでも合いそうだなぁ。そして、なんとなくテレビで放映されている番組で面白そうなのを見るとか、DVDを借りてきて前々から見たかった映画を見るとか……なんせ見たい映画がいっぱいあるので選ぶのに困ることはないだろう。そうやって難しいことを考えずに、気の向くままに過ごして、最後は眠くなったら寝る。なんて、そんな贅沢なことをしてみたい。たいしてお金が掛かるような贅沢ではない、金曜の夜に限ってでも構わない、ほんの数時間の余裕があれば簡単に得られるものである。とは言っても、それだけの数時間を手に入れることができないのが、現実である。

まぁ、そんなことをぼやいたところで仕方がない。時間がないというのは、所詮ただの言い訳にしか過ぎないのかも。考えてもみれば、時間というのは誰にでも同じだけ与えられているはずだ。それを足りないとか、自由に使えないとか感じるのは、要するに自分の時間の使い方がマズいだけなのかもしれない。
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長い言葉

前にも書いたかもしれないが、私は新製品とか、期間限定とかいう言葉に弱い。それに加えて割引となっていると、さらに興味が増してしまう。ところで先日、駅前のコンビニに行ったら「パン全品20円引き」となっていた。ちょっと小腹が空いていたこともあり、何か甘いものを食べたい気分にもなっていたので、蟻が甘い蜜に導かれてしまうかのように、つい足がコンビニへ向かってしまった。新製品のパンが20円引き……おぉ、なんと素晴らしいことなのか。新製品の菓子パン……あぁ、なんたる甘い響き。しかも、あんぱん好きの私にとっては、その甘い誘惑から逃れることができない小豆、つまりは餡子が使われているではないか。これは買うしかない。でも、ひとつだけ買ってしまうと、家族で分けたときに自分の取り分が減ってしまうので、それは避けるべきだ。ということで、同じものを二つ買うことにした。これで、合わせて40円引き。なんだかすごい得した気分である。まぁ、ホントは、必要のない出費をしただけなのかもしれないけど。

そのパンの名は「よもぎ求肥と小豆を包んだ/よもぎと小豆のちぎれるぱん」である。ちなみにひとつ119円、なんと20円引きすると99円、ぎりぎり二桁で収まる値段ではないか。もちろん、税抜価格なので実際には100円を超えてしまう。だが、そんなことを考える理性など残されているわけがない。
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自由に求める

これが欲しいとか、あれが欲しいとか、私の欲は尽くことがなさそうだ。食欲、睡眠欲、物欲に金銭欲。おおよそ欲という字の付くもので私を形容することができそうである。私から欲を取ってしまったら、いったい後には何が残るだろうか。もしかしたら脂肪くらいは残りそうだが、せいぜいそれくらいだろうか。そう考えてみると、まるで私は欲と脂肪の塊のような存在のように思えてしまう。なんだか潰したら汚そうだし、後の掃除も大変そうだ。さて、そんな私の欲求なんてものはまず満たされることがなく、日々は過ぎていく。何やらもやもやした気持ちで、すっきりしないまま過ごすこともしばしば。しかし、もしかしたら、欲があるゆえに生きていくことができているのではないか、そう思うこともある。もし万が一にも私の欲がすべて満たされてしまうようなことがあったら、もしかしたら私は抜け殻のようになってしまうかもしれない。

それはさておき、祈りの中で神に何かを求めるとする。もちろんどんなことでも求めて構わないと言われても、気が小さいからなのか、それとも信仰心が薄いからなのか、本当にこんなことを求めても良いのだろうかと考えてしまうこともある。自分のわがままな願いを祈るくらいなら、もっと求めるべきものがあるのではないか、そう考えてしまう。たとえば、まだ本当の神を知らぬ人々がイエス・キリストと出会うことができるように、そうやって他人のために祈るのが正しいのではないか、と。確かにそれが正しいことに違いはないだろう。しかしそれだけが正解なのかというと、そうでもないのかもしれない。
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失望しない

ここしばらく、口を開けば出てくる言葉は「暑い」ばかりである。心頭を滅却すれば火もまた涼しとは言うけれど、暑いのは暑いのだから仕方がない。これだけ暑いと心を無にするなどできるわけがない。それができるのであれば、最初から暑いなどと文句を言うことなどないだろう。暑さにさらされても無念無想の境地を保つ努力をするくらいなら、さっさと冷房の効いた場所を探して出掛ける方が断然に楽である。それこそ、この時期であればどこか明確な目的地があるわけでもなく、ただ電車に乗っているだけでも涼しくて楽だし、肉体的に負担が少なければ精神的にも楽になるだろう。むしろ冷房の効いた車内の方が無念無想でいられるのではないか。

そういえば、言霊という考え方があるわけだが、だからといって「暑い、暑い」と毎日口に出しているから、暑くなったというわけでもあるまい。実際に暑いから、暑いと言いたくなるだけであって、その逆ではない。もちろん、誰に言われずとも暑いのが分かっているときに、暑いとばかり聞かされてしまうと、それはそれで余計に暑苦しくなってしまうだろう。
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粘ったもの勝ち

前回はイエスが弟子たちに請われて祈りについて教えた、その祈りの手本について見てきた。イエスが教えた祈りが、祈りに関するすべてであるかというと、まだ続きがある。それにしても、自らを振り返ったときにイエスが示したように祈ったことは、果たしてどれほどあっただろうか。改めて考えてみると、常に教えられた通りに祈っていたかといえば、実際にはそうでもないようだ。

たとえば、困った時の神頼み、と言うように、神を讃えることをすっ飛ばして、一方的にこちらの要求だけを祈りの中で求めることの方が多いような気がする。溺れる者は藁をも掴む、という言葉もあるように、問題を抱えて助けが必要な場合には、それこそ大海原で一掴みの藁が何の助けにもならないにも関わらず、それでもそれにすがろうとするのは、どのようなものであっても、とにもかくにも他の何かに救いを求めようとする人間の本能のようなものであろうか。もちろん、神は藁のように頼りのないものではないだろうが、もしかしたら信仰のない人の立場からすれば、目で見ることもできず、耳で聞くこともできなければ、手で触れることも出来ないような神などという存在は藁に等しいのかもしれないが。仮にそうであったとしても、それでも助けを求めるというのは、やはり人間が持って生まれた弱さなのかもしれない。ましてや信仰があればあったで、まったく自分勝手であるが、助けが必要になったときだけ都合よく神さまにお願いしてみるか、などと考えてしまうのである。
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