タグ : 神の国

誰が一番偉いのか

イエス・キリストが最後の食事の場において、最も身近な弟子たちに、今日まで続いている聖餐式の意義を教えたその後のことである。弟子たちは彼らの師であるイエスの話を聞いて、その意味について真剣に考えたり、その内容について話し合ったかであろうか。この箇所を読んで分かることは、彼らは宮殿で人々が大勢集まる中でイエスの話を聞いていたわけでもなければ、夜の静けさに包まれる荒野で彼らだけがイエスと共に休もうとしている時にイエスが語るのを聞いたわけでもない。過越の食事をしているときに、この話を聞いたのである。さすがに彼らがぶどう酒を飲んでべろんべろんに酔っていたとも考えられないが、酒に酔わなくとも雰囲気に酔うということはあるだろう。それこそ年に一度の祭の時の食事とあれば、さすがに彼らも今で言うところの、テンションが上がっていたかもしれない。イエスの言うことも耳にしたとしても、あまり真面目には考えていなかったようである。

それというのもその時の彼らの話題は、果たして誰が師を裏切るかということと、彼らの中で誰が一番偉いかということであった。前者はイエスが「見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。」(ルカの福音書22章21節)と言ったことに理由があるのは分かる。しかしなぜ後者の話題になったのかは、分からない。これは私の憶測でしかないが、誰かがイエスを裏切るということは、すなわち彼らに対して仇をなす者が出てくるということである。だとすれば、その反対に彼らの中でもっともすぐれた者がいたとしても、不思議なことではないだろう。人というものは、何かと他人と比べたくなってしまうものである。弟子たちとて、イエスと出会うまでは普通に生活してきた人たちである。そのように考えたとしても、仕方のないことであろう。
続きを読む

絶滅危惧種

先日、世界に三頭しかいないというキタシロサイの一頭が死んだ。死んだのはこの世に生存していた最後のオスだったそうな。残りの二頭はメスなので、この時点で絶滅することが確定した。スイスに本部を置く国際自然連合によると、おおよそ二万種の生物が絶滅危惧種として認定されているそうだ。種が絶滅するのは自然の流れのなかではやむを得ないことなのであろう。今でこそ人類は繁栄を誇っており、地球上で最も優位に立っている存在であると言っても言い過ぎることはないだろうが、そんな人類でさえいつかは「絶滅危惧種」になってしまうという可能性も否定はできないだろう。急激な気候変動、巨大火山の噴火、小惑星との衝突、致死率の高い感染症、等々……未だかつて人類が遭遇したことのない自然災害が発生するかもしれない。もしくは人類が自らの過ちから何らかの事象を引き起こし、自らの破滅を導いてしまうことも、自然災害よりも確率は低いかもしれないが皆無ではないだろう。

その一方で、技術は日々進歩している。人類の英知をあわせれば、これらの問題を回避することも不可能ではないだろう。気候変動を抑止する方法を見出せるだろうし、火山の噴火を予測することができれば、事前に安全な場所に避難できるかもしれない。地球に衝突しそうな物体があれば、その軌道をずらすこともできよう。あらゆる疾病に対する治療方法も見出されるかもしれない。また人類も過ちを犯すことなく共存共栄の道を歩んでいるかもしれない。場合によっては、不死とは言わないまでも不老長寿を達成しているだろう。やがては人類は永遠に存在し続けることができるようになるのではないか。そう思えてしまう。しかし、終わりは必ずやってくる。50億年後、太陽の寿命が尽きる頃、地球は太陽に飲み込まれてしまう。火星に逃げても無駄である。木星、土星、まぁ、少しは生き延びられるかも。だが、太陽が死んでは、人類は生きていけない。もっとも、その時までに別の太陽系に移住していれば、話は別だが。
続きを読む

神にはできる

神の愛と、その結果として得られる罪の赦し。そして、神から与えられる永遠のいのち。世の中でこれらに勝って価値のあるものなど存在しない。なんてことは、信仰心では分かっちゃいるけど、そんなものでは食べていけるわけでもなし、生活していくのは厳しそうだ。聖書にはイエス・キリストを信じれば、生ける水の川が流れるようになると書いてはあるが、それは肉体的、物理的なものではないだろう。やはりこの世界で生きていくためには、それだけのものが必要なのである。そして、それは多ければ多いほど良いに違いないと、そう考えてしまうのも仕方ない。ということで、この夏は普段なら十枚しか買わない宝くじを二十枚買ってみた。しかも別の売り場でそれぞれ十枚ずつである。単純に考えればこれで当たる確率は二倍になった。もっとも別の見方をすれば、外れた場合の損する額も二倍になっている。まぁ、冷静になって考えてみれば、ただ損しているだけな気もするが、ここは勢いに任せた方が気が楽なのかもしれない。

ところで、正しいものが何か分かっていても、なかなかその通りに従うのは難しいというのは、誰しもが感じていることかもしれない。であるにも関わらず、それでも正しいことを行うには、相当に強い意志の力が必要であろう。それとも、正しいと頭では理解していても、その通りに体が動かないのは、やはり人が生まれながらの罪人だからなのであろうか。楽な道を選びたくなるのも、人間の弱いところなのかもしれない。
続きを読む

神の国の訪れ

二年ほど前のことだが、私の勤務先のビルの隣で新しいビルの建設が始まった。何ができるのかと思いつつ時折様子を見ていたが、ようやく今年の春先くらいに立派な野村総研のビルが完成した。見たところほとんどのオフィスビルがそうであるように、一階部分は共用スペースとなっており、コンビニなどの店舗が入居できるようになっていた。私の興味の対象は、そのビルの一階部分のテナントに、何のお店が入るのだろうか、ということであった。昼食やおやつに、何をどれくらで食べることができるか……働く私にとっての数少ない楽しみの一つであり、実に大切な問題なのである。そして、テナントに何が入るか分かり始めたのが、つい最近のことだ。

私の期待としては、コンビニ……と言っても何でもよいわけではなく、ファミリマートやローソンの系列ではないものが欲しかった。この二系列のコンビニはすでに近所に複数あるから、どちらかといえば飽和状態である。それ以外では、やはり数百円で食事ができるチェーンの牛丼屋、そば屋、うどん屋、中華屋が欲しかったのである。もっとも半ば観光地となっているみなとみらいでは、そのような庶民的なお店はあまり期待はできないだろうことは覚悟のうえだが。考えてもみれば、横浜のみなとみらいにまでやってきて、お昼にどこでも売っているようなものを食べようとはしないだろう。
続きを読む

門が閉まる前に

通勤途中で目にする日常……電車に乗って発車するのを待っていると、ドアが閉まる直前に駆け込んでくる人たちがいる。駅の階段をホームに向かって上っていると、電車が着いたと知るや、急いで駆けていく人たちがいる。そんなに急いでどうしようというのか。乗り遅れたら、次の電車で行けばいいじゃないとか、私なら考えてしまうのだが、どうやらそう考えない人たちも結構いるのだ。何と言うか、いい歳をした大人が公衆の面前で慌てて走っている姿というのは、みっともないものであると私は思っている。誰かに追われているとか、誰かを追っているとかならまだ分かるが、さすがにそんなシチュエーションは普通ではないことであろう。要するに時間に余裕を持って動いていれば、電車を一本逃したところで、何も困ることはない。言い換えれば、慌てているということは、ぎりぎりの時間で行動しているということで、それだけ計画性の甘さが露呈していることに他ならない。そんな姿を晒すくらいであれば、潔く遅刻する方が私としてはまだ許せる。もっとも、私が走る姿を見たとしても、人は何とも思わないだろうけど。

とは言え、何事においても例外というのはある。この場合、それは終電だ。終電を逃しては、家に帰り着くことができない。終電を目指して猛ダッシュをする大勢の人たちを、みっともないと言ってしまうのは、ちょっと酷かもしれない。何せ次がないのだから、待つという選択肢がない。もし待つなら、翌朝まで待たなければならない。だが、それでも大丈夫という人はほとんどいないであろう。終電に間に合うかどうか、運命の岐路、とまでは行かなくとも、本人の気持ちとしてはそれに等しいものがあろう。では、私ならどうするかと言えば、終電に間に合うかの瀬戸際だと知れば、おとなしく会社で夜を明かすだろう。
続きを読む