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罪人を招く

隣は何をする人ぞ、とはよく言うものである。これは私の場合であるが、混んでいる電車に乗っていると、隣に立っている人がスマホで何をやっているのかと、つい見てしまうことがある。言い訳ではないが、意図的に盗み見ているわけではない。ただ何をしているのかなぁと興味があるだけだ。たいていの人はゲームで遊ぶか、ツイッターやらLINEやらをやっているか、ブログやニュースや漫画を読んでいるか、いずれもありふれた光景なのでこれといって珍しく思うことはない。ところが先日買い物をしている人を見かけた。スマホで買い物なんて、そんな気軽に物を買うなんて私にはまねができないよ、と思いつつ何を買っているのか観察していたら、一人は2万円強のテニスシューズ、もう一人は十数万円のグアム旅行であった。ふぇー、お金が余ってるんだなぁと思ったのだが、よく考えてみれば世の中では夏のボーナスが出た時期なのを思い出した。

新聞の記事によると、おおよその金額であるが、大手企業のボーナス支給額は平均で90万円、国家公務員は60万円、だとか。人の財布を覗いても無意味なことは分かっているのだが、なんともうらやましい限りである。お金はお金の好きな人のところに集まると、何かで見たことがあるが、はたしてそんなものなのだろうか。私だってお金が好きであるが、それでもお金に対する愛情というか、情熱が足りていないのか、お金が集まってくるような気配は皆無だ。それこそお金を愛してやまぬというくらいに、お金を得るためなら、あれやこれやと苦心するくらいの想いがないとだめなのだろうか。とは言え、裕福な人すべてが金の亡者でもないから、やはり、そういうわけでもないのだろう。
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第一印象

梅雨の時期である。雨が降ったりやんだりと、どうもすっきりしない日が多い。いつ雨が降っても大丈夫なようにと、傘を持ち歩いている人の多いこと。ちなみに私は傘を持つのが、荷物が増えて身軽さが犠牲になるのがいやなので、朝出掛けるときに雨が降っていない限りは、傘を持っていかない。もちろん、いざという時の雨に備えて気休め程度の小さな折りたたみ傘を鞄に常備はしている。さて、傘と言えば、すれ違う人たちの傘がちゃんと畳まれていか、つい私は見てしまう。ただ留め具を留めただけのような畳み方をする人を見ていると、どうも気になって仕方が無い。かと思えば、買ったばかりのように、先の方からくるくるとまとめて、最後に留め具で留めている人を見ると、妙に安心したりもするものだ。傘の畳み方くらいで人を評価するのはどうかと思うのだが、見ず知らずの他人だからこそ、見た目の第一印象でしか判断のしようがない。

さて、体の自由が効かない男性が友人たちの工夫によって、イエスのところに連れて来られて、イエスが友人たちの信仰のゆえにこの男性を癒やされたというのは、前回も見た通りである。ところが、この時問題になったことがひとつあった。それは癒やされた本人にとっては、あまり重要なことでもなかったようだし、また彼を連れてきた友人たちにとっても、はっきり言って、どうでもよかったことかもしれない。また、イエスに救いを求めて集まってきた大勢の人々にとっても、さほど大事なことではなかったであろう。なぜなら、彼らの目的は、ただひとつ、病苦からの解放であった。それ以外のことには、考えるだけの余裕もなかったであろう。
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まず罪があって

人はどこからやってきたのだろうか。などと書いてみると、どことなく思慮分別がありそうで、頭が良さそうに聞こえそうだ……なんて、そんなワケないだろう、こと私に限って言えばなおさらだ。いずれにせよ、すでに議論が尽くされた話題である。今になって、このようなことを言い出したところで、人は何とも感じないに違いない。

それにしても、人は果たしてどこからやってきたのだろうか。世の中の議論を二つに大別するのであれば、長い年月の進化の過程を経て今日の人間になったという意見と、神が人間を創られたという意見になるだろう。前者がいわゆる進化論というものであり、後者が創造論というものである。もちろん、世界は広い。人は別の惑星からやってきたという意見もあるだろうし、人はコンピューターのプログラムの一部だという意見もあるかもしれない。千差万別であろうから、なかには独創的でおもしろい意見もあるだろうが、片っ端から見ていくときりがないので、今回は除かせてもらう。さて進化論と創造論であるが、私は専門家ではないから細かいことは何とも言えない。公平な目で見るとしても、どちらが正しいかについても今は考えようとは思わない。
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赦しの格好

もしも、である。もしも天国と地獄があったとしよう。いや、信仰のある人々にとっては、天国と地獄は仮の話ではなくて、現実の話であろう。そうは言っても、信仰を持っている人は、世の中、特に今の日本では、それほどいないというのが現実であろう。天国と地獄があると信じている人は、果たしてどれくらいいるであろうか。私も信仰を持つ前は、そのようなものが存在するなど信じてはいなかった。人間の叡智を超えた何者かが存在するであろうことは、それを神と呼ぶかどうかは別として、何となく考えたりしたことはあったが、死んだらどうなるかについては、存在が消えてしまうだろうくらいにしか考えていなかった。死後の世界も、生まれ変わりも、あり得ない話でしかなかった。

さて、天国と地獄があると私が言ったとしても、聖書に書いてあると言っても、信じてくれる人は少ないかもしれないが、ここでは天国と地獄があるという前提で考えてみよう。人は死んだら、どちらかに行かねばならない。どちらに行くか、最後の最後まで分からないということはない。どちらに行くかは、人に選ぶことができるのだ。とは言っても、天国行きの乗車券や、地獄行きの特急券があるわけでもない。さすがにそれほどダイレクトなものではない。では、日頃の行いによって決まってくるのであろうか。まぁ、それが世間一般での考え方かもしれない。だが、普段の行いなんていうものは、大半の人が似たり寄ったりであろう。この世に善人は一人もいないというのは、聖書の教えるところであり、人は生まれながらにして罪人であるということもまた然り。もしこの世の人間を分類分けするのであれば、「極悪人」「悪人」「小悪人」と言うことになるのだ。何をしたかで考えたら、もれなく全員地獄行きである。
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赦されざる罪

どのような罪であっても神は赦して下さるというのが、いわゆるキリスト教的な考え方である。イエス・キリストの十字架での自己犠牲、すなわち時代と場所を越えたすべての人々のありとあらゆる罪の身代わりとなられたという事実がその根拠である。そこで疑問に思うのが、神でさえも赦すことのできない重い罪というのは果たして存在するのだろうかということである。たとえば神の子であり救い主でもあるイエスを裏切ったユダの罪はどうであろうか。信仰的もしくは道義的に考えて、彼のしたことは悪いことであるのは明白であるが、彼の犯した過ちが赦されるに値するかどうかという点に限定して考えるのであれば、それは赦されるに値する罪であると私は思う。だが彼が赦されたという記録はどこにもない。そう考えると彼はやはり赦されなかったのだろうと思う。しかしこれは結果としてユダが赦されなかっただけであろう。神が赦さなかったのではなくて、ユダが赦しを求めなかっただけではないか。

赦すことができるということと、実際に赦されるかどうかというのは、まったく別の話であろう。前者はいかなる罪をも赦すことができるという、神の情け深さ、慈悲深さを表すものであるとすれば、後者は人間の神の寛大さに対して、どのような態度を取るかの結果を表していると見ることができるのではないだろうか。残念ながら、世の中に悪が存在する様を見て、神は存在しないと言う人々がいるが、神の存在を知りたいのであれば、悪の有無ではなく、赦しの有無で考えるべきであろう。
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