タグ : 聖書のことば

神の自己紹介

あまり専門的な話をするつもりはないが、先日インターネット上における固有の識別番号―住所や電話番号みたいなもの―をひとつ借りた。世界にひとつだけのものである、と言ってしまうと、何やら希少価値の高いもののように思われるが、早い者勝ちで誰でも欲しければ借りることができる。ちなみにこの番号は世界規模で管理されているので、個人が「所有」することはできない。だから「借用」することしかできない。ところでこの番号を持ってるだけでは何の役にも立たないので、付帯する設備一式もレンタルしたわけであるが、そう書いてしまうと、たいそう高価な借り物をしたように聞こえてしまうかもしれないが、ペットボトルのお茶にして数本分の代金である。ずいぶんと身近になったものだ。一体全体そんなものをどうするのかと言われてしまうかもしれないが、スマートフォンの台頭もあり、この識別番号が枯渇してしまう可能性があるということで、そうなってしまう前にひとつくらいキープしておこうと考えたのである。いずれ返却することになるか、さもなければ次世代の番号に変更されることになるかもしれないだろうが、せめてひとつくらいは持っていても損にはならないだろうと思ったまでだ。

ちなみにこの番号、通常は三桁の数値が四つ並んだものであるが、それでは分かりにくいので、名称を付与するのが通例である。たとえば教会のホームページを例にすると、”sakaeshalom.org”と名付けられている。そんなこんなで、必須ではないにしても将来的な利便性を考えて、私も何か名前を付けようと考えているわけだが、どうもピンとくるものが思い浮かばない。連休でこの原稿を書く時間があったにもかかわらず、その名前を考えることに無駄にアタマをフル回転させてしまったので、原稿の方は一向に進まなかったという具合だ。名は体を表わす、と言うから何かしら気の利いたものにしたいところだ。
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人がひとりでいるのは

ふと会社を休みたくなることがある。もちろん仮病を使おうだとか、無断欠勤をしちゃおうだとか、そういう意味での休みではない。きちんと手順を踏んで、正々堂々と休むということである。などとうそぶいてはみたものの、方法はどうであれ、やりたくもない作業を依頼される予感がするとか、参加せずに済ませたい会議があるとか、根本にある理由は同じたったりするのだ。要するに、イヤなことはやらずに済ませたい、ということである。もっともそんな我儘な理由で会社を休んでしまったら、後悔することになるのは火を見るよりも明らかなので、重い体を鞭打ってでも会社に行くのである。そんなわけだから、会社を休むことができるのは本当に具合が悪いときか、何か別に用事があるとか、仕事の暇な時とか、言ってみればそれくらいのものである。おかげで有給休暇が消化不良を起こしてしまいそうだ。

ところで珍しく、熱を出したとか貧血になったというわけでもなく、銀行とか役所に行かなければならない事情があるわけでもなく、これと言った理由もなく仕事を休めたとしよう。ここぞとばかりに、普段はできない朝寝でもして昼頃に起きて、適当に食事をして、レンタルしてきた映画の一つや二つでも見て過ごそうなどと、あれこれ計画にもならないような計画を考えたりするのだが・・・・・・現実はそんなに甘くない。そんなぐうたら過ごす私を放っておく者は残念ながらいないだろう。
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風のように

当たり前のことだが、風というのは目に見えない。しかし見ることはできないけれど、風があることを疑う者はひとりもいないだろう。なぜなら風というのは見えなくとも、感じることができるし、また風がきっかけとなって起きる様々な現象を見ることができる。つまり間接的に風を知ることができるのだ。凍てつく真冬の朝に風が吹けば、刺されるような痛みを感じ、それで風を知ることができるようなものだ。風があるのを知りたければ、目を開くまでもない。むしろ目を閉じて、じっと外に立っていれば、風が過ぎて行くのを感じることができるだろう。もちろん目を開いていても構わない。空を見上げれば流れる雲を見ることができる。水面を見れば風にさざ波が立つのを見ることもできる。草や花や木を見れば、葉や花びらが風に揺れるのを見ることができる。道を歩いていれば、紙くずやコンビニの袋が風に舞うのを見ることができる……が、あまりこれは見ていて気持ちの良いものではない。

果たして風はどこからやってくるのだろうか。風に始まりなどあるのだろうか。科学的にはどうであれ、感覚として分かるのは、風に始まりなどとはないだろうということぐらいだ。また風がどのようにして生じるのかについては、いくつか理由があるだろう。身近なところでは、ウチワで扇いだり、扇風機のスイッチを入れたりすれば、風を作り出すことは簡単にできる。つまり空気が動けば風になるのだ。自然に発生する風も、空気が動くという点においては違うことはないだろう。ただスケールが大きくて、空気の動きと言うよりは、大気の動きという方が適切かもしれない。
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国籍

先日ぼんやりとこんなことを考えていた。私が最後に海外に出掛けたのは、今から九年ほど前に新婚旅行でタヒチに行った時だったなぁ、と。そんなことに思いをめぐらしていたら、ふと気がついたのだ。もしかしたら私のパスポートは既に期限が切れているのではないか、と。確かに覚えていることは、最後に申請した時は将来的に使うことができるようにと、有効期間が十年のパスポートを作ったはずだということだ。あわよくば、まだ有効期限が残っているかもしれないと期待しつつ、パスポートを引き出しの奥から引っ張り出して、改めて見てみると……残念、すでに去年の11月に失効していた。

つまりこういうことだ。もしまた私が海外に行くとなったら、再申請をしなければならないのである。必要な書類を準備して、申請書に記入して、パスポートセンターまで出向いて、などとあれこれ考えると面倒に思えてしまう。しかも以前と同じように有効期間が十年のパスポートを作る場合には一万六千円、仮に期間が半分の五年でも一万二千円も費用が掛かる。果たしてパスポートなんてそこまで手間や予算を掛けてまで取得するほど価値があるものなのだろうか……というのは、所詮海外に行くだけの理由も、時間も、金銭もない私の僻みでしかないのだろう。もし海外に行けるのが分かっていれば、きっと私は嬉々としてパスポートセンターまで出掛けて、高価な収入印紙をためらうことなく買っていることだろう。が、いずれにせよ今の私には縁のない話である。
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二兎追う者は

人という存在がもとより欲の深い生き物なのか、それともただ私の欲が目立って強いだけなのか、いずれにせよ私の頭の中には常に様々な欲望が渦巻いている。もっともこんな私であるが、豆粒程度のわずかばかりの理性はあるようで、辛うじて自制することができているらしく、それらの欲望のままに生きているわけではない。もちろんそれらの欲望を実現する能力に欠けているというのも理由の一端かもしれないが。やりたいことをすべてやることができるわけでもなければ、欲しいものを何でもかんでも手に入れることができるというわけではないというのが現実である。

実際、二兎を追う者は一兎も得ず、という諺もあるではないか。ところでその情景を思い浮かべつつ、勝手にその後を想像などしてみると、結末は明るくなさそうである。例えば、一人の人が草原で白毛の兎と黒毛の兎を見掛けたとしよう。細かい事情を追及するのはやめにして、どうしようもないほどその人は空腹を覚えたので、一羽では足りないかもしれないと思い、二羽とも捕まえて食べようと兎に飛び掛かったのだが、その動物的な本能で危険を察知した兎たちはどうしたかというと、白毛は左へ、黒毛は右へ逃げてしまった。残念無念、その人の着地した先には兎はいない。それどころか足場が悪かったら無事に着地できないばかりか、下手をしたら足首を捻挫してしまうだろう。そうなると状況はさらに悪くなってしまいそうだ。ただでさえ腹が減ってへたばっているところに、足首の痛みが加わってしまうのだから、これでは草原でひとりぼっちで残されて、誰かに発見されなければ飢え死にしかねない状況である。今さら一匹だけに狙いを付けて、地味に罠でも仕掛けておくべきだったと考えても手遅れである。
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