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満たされぬ渇き

時は金なり、という。何度も言われてきた言葉だから、今更驚くことでもなければ、新たな発見があるわけでもない。時間はお金と同じくらいに大切だという意味も、真新しいものではない。ちなみに、この言葉は18世紀のアメリカの学者でもあり政治家でもあったベンジャミン・フランクリンが最初に言ったというのが通説である。言葉の背景には、一日の半分を怠惰に過ごすことは、半日分の稼ぎを捨て去るのと同じことであると、若い世代に勤勉を勧める思いがあったようだ。


分かりやすいと言えば、分かりやすい。確かにその通りだろう、と納得もできよう。とは言えども、この言葉の通りではないのかもしれない、と思うこともあるのではないか。もしかしたら、何もしないで過ごすことは、同じだけの時間を掛けて何かを生み出すよりも価値がある場合もあるのではないかと。それが具体的に何かと聞かれても困るが。果たして両者を天秤に掛けたら、本当に均衡を保つことができるのだろうか。もしかしたら、どちらかが重くて傾いてしまうのではないか。そうなった場合、人は時間を選ぶのか、それともお金を選ぶのだろうか。

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Be Still

気付いてみれば、もう十二月。世の中では、師走と言われている時期である。師が忙しく走り回る時期だから「師走」である、と小学校の頃に習ったことがある。深く考えたことはないのだが、「師」が何を表すのかは、諸説あるらしい。ちなみに私は「師匠」の「師」だとずっと思ってきたのだが、今になって考えてみると、師匠が忙しく走り回るとは一体どういうことなのだろうかと、ちょっと想像しにくい図ではある。そもそも、師匠と言っても何の師匠なのかさえも不明である。とは言いつつも、師匠と呼ぶからには、何やら和風なものを想像してしまうのである。

しかしこの時期になるといつも感じることなのだが、一年というのはあっという間に過ぎてしまう、と。なぜなのか。おそらく毎日慌ただしく過ごしているせいなのかもしれない。ただひたすらに、目の前のことをこなしている。それだけで毎日があっという間に過ぎていく。振り返ってみても、何か大きなことを成し遂げたというわけでもない。むしろ何も達成せず毎日追われるように過ごしていたら、いつの間にやら一年の最後の月になっていた、そんな具合である。師走でなくとも、いやそれどころか何かの師でなくとも、常に忙しく走り回るように生きているのが、今の私なのかもしれない。

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捕らわれの身

神がなさった良いこと。今ひとつは、試練の時の脱出の道を人のために備えてくださっていること。

先日の朝のこと、職場の最寄り駅の改札を出て、駅と隣接する駅ビルとを繋いでいる通路を歩いていたら、目の端に何やら動くものの影を捉えた。はて、何であろうかと思い、目を向けると、大きな黒い揚羽蝶が天窓のところを飛んでいるのが見えた。どうやら、どこからか迷い込んでしまい、外に出られなくなってしまったようである。天窓の向こうには晴れた青空、そして風に流される小さな雲の固まり、どうやら蝶はガラスの向こうに帰ろうとしていたのだろう。だが、どれだけ羽を動かそうとも、そこから出ることはできないのである。あのままでは弱って通路の床に落ちて死んでしまうか、天井の隅に巣を張る蜘蛛に捕らえられて死んでしまうか、いずれにしても残念な最期を迎えることになるに違いない。

さて程度の違いこそあるだろうが、世の中の多くの人たちは、どこかで閉塞感を感じている、もしくは感じたことがあるのではないだろうか。日常の生活のなかで、ふと立ち止まって自分自身を顧みるときに、自分には何の悩みも不安もないし、先々まで明るい見通しが立っていると、何の疑いもなくそのように答えられる人は果たしてどれほどいるだろうか。むしろ人が立ち止まって思い起こすことは、自らが抱えている心配事や悩み事ばかりであろう。私などは人生を左右するような大きな問題こそないものの、日々小さな悩みの連続である。例えて言うならば、ボールプールの中にいるようなものであろうか。周りにあるボールの一つひとつが、問題であり、悩みであり、心配事であって、ひとつふたつと手に取って何とか解決して、遠くに放り投げたとしても、まだまだボールはたくさん残っている。ボールを掻き分けて進んでみたところで、ボールは私の後ろに回り込んで視界から去っただけで、消えてなくなったわけではない。そうこうしているうちに、誰かが外からボールを放り込んできたりする。もしかしたら、それが多くの人にとっての現実ではないだろうか。
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大きいのは神か、それとも宇宙か

神がなさった良いこと。今ひとつは、人に知恵を与えてくださっていること。

いや、変な誤解をされたり、妙な期待をされたら困るので、念のために言っておくが、神が私に知恵を授けたからといって、私が天才になったとか、頭が良くなったとか、そういうことではない。実に残念なことではあるが。まぁ、考えてもみれば、もし本気で賢くなりたいと願うなら、これは神にすがるだけでは十分ではないだろうし、それなりに努力もしないといけないのだろうと思う。確かに神は良いお方であり、求める人々には惜しむことなく与えてくださることに疑いはないのだが、だからと言って人を甘やかすようなこともされないだろう。

さて賢くなったわけではないから、私にはまだまだ分からないことが多い。例えばの話をしよう。じめじめとしたちょうど今くらいの時期は空気が霞がかっているためか、仮に雲一つなく夜空が晴れ渡っていたとしても、星を見たとしてそれはわずかであろう。ましてや、私の住むところは高い山の上でもなければ、街の灯りから遠く離れた自然の中でもないから、なおさらである。ところでまだ空気が乾いて澄んでいた時期、横浜よりは標高もあり、街の灯りも微かな栃木の小さな街に出張で滞在していた頃、晴れた夜空を見上げたら、横浜で見えるよりも多くの星を見ることができた。さて、そこで私の頭にはこのようなことが思い浮かんだ。我々の住む地球の属する銀河系には一千億以上の恒星があり、観測可能な宇宙にはそれと同じくらいの銀河があるという。もはや私の頭では理解できない規模であり、想像すら及ばない。ただ宇宙の大きさに圧倒されるのである。
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人生の目的?

神がなさった良いこと。今ひとつは、生きることに目的を与えてくださっていること。

なんて言ってしまうと、神が私に「人生の目的」を与えてくださった、という意味に取られてしまうかもしれないが、実際はそれとはちょっと違うような気がする。では、どう違うのか聞かれたら、一言で説明するのは難しいが、一人の人間の一生の規模で考えるような、さほどに大げさなものではないように思う。

そもそも「人生の目的」というものは、字面が表すほどに簡単なものではないと思う。だいたい「人生の目的」なんて言ったところで、自分自身でそれが何であるかと、はっきりと分かっている人なんて、果たしてどれほどいるのだろうか。正直、私だって「私の人生の目的とはこれだ!」などと言える自信はまったくない。例えばであるが、もし私が「お金持ちになる」というのを人生の目的に挙げたとしたらどうだろうか。冷静に考えてみれば「んー、やっぱそれは無理だわ」という結論に達する。いや、お金に興味がないわけではないし、むしろお金は欲しいぞ。だけど、それを人生の目的にしてしまったら、それを実現するために、何かしらの努力をしなければいけないだろう。では、それだけの商才が備わっているかと言えば、残念ながらそれはない。一発何かをやってやろうというほどの気概もない。せいぜい地道に働いて給料を稼ぐくらいしか能がない。残念なことだが。
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