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金曜の夜

金曜の夕方がやってきた。一週間の終わりである。色々と課題は残ったままだけれども、ひとまずそれはそれで置いておくとしよう。一度に全部を片づけることなどできない。時間を掛けて少しずつ片づけていけばよい。ひとまず直近で早々に対処しなければならないことさえ終わっていれば問題ない。積み残しがあったとしても、誰かが著しく困るわけでもなければ、ましてや世界が終わるわけでもない。ということを考えつつ家に帰る。気分転換をしたり、気晴らしをしたり、疲れを癒したり。そんな気持ちになる。たとえば、帰りにデパートの地下でもスーパーでもコンビニでも構わない、何やら気の利いた惣菜でも買って、それを肴にビールかワインか日本酒を少しばかり……あぁ、スモークチーズなんて、どれにでも合いそうだなぁ。そして、なんとなくテレビで放映されている番組で面白そうなのを見るとか、DVDを借りてきて前々から見たかった映画を見るとか……なんせ見たい映画がいっぱいあるので選ぶのに困ることはないだろう。そうやって難しいことを考えずに、気の向くままに過ごして、最後は眠くなったら寝る。なんて、そんな贅沢なことをしてみたい。たいしてお金が掛かるような贅沢ではない、金曜の夜に限ってでも構わない、ほんの数時間の余裕があれば簡単に得られるものである。とは言っても、それだけの数時間を手に入れることができないのが、現実である。

まぁ、そんなことをぼやいたところで仕方がない。時間がないというのは、所詮ただの言い訳にしか過ぎないのかも。考えてもみれば、時間というのは誰にでも同じだけ与えられているはずだ。それを足りないとか、自由に使えないとか感じるのは、要するに自分の時間の使い方がマズいだけなのかもしれない。
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ペテロの不安

ここしばらく、最後の晩餐の場でイエス・キリストが弟子たちに語ったことを見てきた。イエスが弟子たちと最後に過ごす晩に彼らに語ったことは、イエスにしてみれば、どうしても弟子たちに聞いておいてもらいたい、彼らに知っておいてもらい、とても重要なものであったろう。イエスはこの夜が彼らと共に過ごす最後になるのを知っていたのだから、どうしてもこれだけは伝えておかなければならないと、そう考えていたに違いない。イエスでなくとも、誰でも今日が最後であることを知っていれば、大事なことを後に残る人々に伝えておきたいと考えるはずだ。例えば、仕事の引継ぎなども同じようなものだろう。私がそれまでやってきたことを、次に担当する人に伝えておくというのは、当然のことだ。さもないと、何かと支障が出てしまう。イエスは神の国の福音を伝えるという、重大な責務を負っていたのだからなおさらだ。

ところでその食事の時に、イエスはシモン・ペテロに呼びかけてこう言った。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカの福音書22章31~32節)
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神の聖者

長崎には思案橋という街があるそうだ。私は行ったことがないから、どのような所なのか分からないが、その名の由来は橋を渡って先にある遊里に遊びに行くか、それとも引き返して家に帰るか、昔の人々が思案したということにあるらしい。人はいつの時代であっても変わらない。人は常に自らの欲求を満たす橋を渡るか、渡らないかと悩むものなのだろう。さてちょっと想像力に頼ることになるが、現金で膨らんだ財布が落ちているのを見つけたとしよう。何も考えなければ、さもそうして当然のことのように近所の交番に届けるに違いない。だが、財布に手を伸ばしたその瞬間、ちょっとした迷いが生じてしまうと、例えば、自分の財布にはちょっとしか入っていないことを思い出したり、周囲に誰もいないことに気付いたり、カード類にさえ手を出さなければばれないんじゃないかとか考えてしまうと、財布の中身に手を出すか、それとも何もせずに交番に届けるべきかと悩んでしまうものであろう。ここで欲望のままに橋を渡って財布の中身に手を出してしまったら、人はちょっと魔が差してしまった、と言い訳をするかもしれない。

しかしながら、魔が差したにしても、邪心を持ったのは他ならぬ自分自身であることに違いない。正しい事は何であり、何をすべきかを分かっていながら、魔が差してしまうということは、人間の中には善と悪の両面が存在しているからだろう。しかし魔が差すと言うと、何やら悪魔に付け入られたかのような気もするが、やはりそうだとしても、隙を見せてしまった人間の側に責任があるのだろう。
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神を試す

三度目の正直、という言葉があるように、二度まで試みて失敗して、さらに三度目に挑戦するというのは、さほど珍しいことでもあるまい。勉強であっても仕事であっても、はたまた趣味の領域のことであろうとも、何をするにしても目的を達成しようと強く思うのであれば、成功するか、成功までしなくともそれなりに納得のいく結果を得られるまでは、あれやこれやと試行錯誤を繰り返し、やり方を変えたりしながら、努力を続けることだろう。それこそ三度目で結果を得られれば良し。たとえ三度目でなかったとしても、どこかで結果を出すことができれば、めでたしめでたし、である。肝心なことは諦めずに、続けるということであろう。そうかと思えば、引き際も肝心というから、ダメならダメで見切りを付けるというのも必要なのかもしれない。

さて、悪魔もイエスを誘惑すること三度目である。「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。『あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。《神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。》とも、《あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。》とも書いてあるからです。』」(ルカの福音4章9~11節)さすがに今回は「もしあなたが私を拝むなら……」などと露骨なことは言わなかった。さすがにそれでは猛烈に反対されると考えたのかもしれない。それどころか、旧約聖書を持ち出して、イエスを説得しようとしているではないか。実際、悪魔が引用したのはこの箇所のようだ。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」(詩篇91篇11~12節)
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悪魔の誤算

悪魔と聞いて、まず思い浮かべるのは、色が赤黒くて、角が生えていて、尻尾の先が尖っており、鋭利な刃物のような爪をしたその手に三叉の槍を持った、いかにも恐ろしげで邪悪な怪物の姿であろう。絵画などでそのように表現されている場合が多いからだろうか、そんな姿を想像しやすい。ではその一方で、天使と聞いて、人は何を思い浮かべるだろうか。たぶん、真っ白い衣を着て、同じく真っ白い翼が生えており、頭の上には明るく輝く「天使の輪」を乗せていることだろう。いかにも柔和な存在を連想するに違いない。さすがに逆を連想する人はいないに違いない。天使は善い存在であり、悪魔は忌むべき存在として、実にわかりやすく表現されている。まさしくユニバーサルデザインのようなものか。

大勢の人がそのような印象を持っているであろうことを踏まえると、「光の御使い」と聞いた時に、人々はどのような存在を想像するだろうか。その名の示す通り、神々しく光り輝く、それこそ暗闇を明るく照らし、人々を導くかのような、そのようなすばらしい存在を連想するかもしれない。ところが、外見とは時にその内側にあるものを隠し、人を欺くことがあるということを忘れてはなるまい。「サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(コリント人への手紙第二11章14節)すなわち悪魔はいわゆる悪魔らしい格好をして人々を怖がらせたりすることはない。だいたい悪魔の目的とは人々を神から引き離すことにあるではないか。それなのに自らが人々に嫌われるような姿形で、人々の前に現れるということはないであろう。だから悪魔は人を欺くために、人々が安心するような姿で現れるのだ。もちろん、文字通り光輝く天使として現れるというわけではないだろうが、つまりは人を油断させるためであれば、手段を選ばぬということかもしれない。
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