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永遠に生きること

神がなさった良いこと。今ひとつは、永遠のいのちを約束してくださっていること。

ところで永遠のいのちと言っても、神が与えられるそれは、いわゆる不老不死というものではない。もし神が不老不死のいのちを与えようと言ったら、私はどうするだろうか。果たして、それを喜んで受け入れるだろうか。いやいや、それはないだろう。私はきっと遠慮するに違いない。いや、遠慮ではなくて、はっきりと断るだろうと思う。不老不死。すなわち老いることもなければ、死ぬこともない。それだけを聞くと、なんとも良いことのように思えなくもない。老いず死なず、ということは寿命がないということになる。言うなれば、時間の制限を受けることのない身分になるということだ。やりたいことがあったら、いつでもやることができるのだ。今日やれなかったら、明日でもよい。そして明日がだめなら……時間はいくらでもある。そうやって考えると、ずいぶんと気が楽になるのも確かだ。焦ることも慌てることもないのだから、のんびりと日々を過ごせるに違いない。

しかし冷静に考えてみれば、そんなに楽しいことばかりではないのが、この世界の現実ではないだろうか、残念なことかもしれないが。例えば、やりたいことをやるだけの時間が限りなくあったとしよう。そうだとしても、あるのは時間だけで、お金は保証されていないのだから、やりたいことをやるためのお金を稼がないといけない。不老だから永遠に定年にたどりつかないわけで、つまり永遠に年金を払い続けるだけで、いつまで経っても年金をもらうことはできないのである。当然、定年退職を迎えることはないので、退職金を手にすることもできない。どれだけ働いて、どれだけ積み立てても、返ってこないのである。まぁ、途中で退職すれば話は別だろうが、いつかまた働かないとならない。つまりは、これを永遠に繰り返さなければならない。そうだとすれば、世の多くの人々にとっては、これは苦痛以外の何ものでもないだろう。
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パラダイス

楽園、もしくはパラダイスと聞いたときに、まず私の頭に浮かんだのは「スイーツパラダイス」である。スイーツとパスタなどの軽食の食べ放題のお店である。とは言っても、さすがに甘いものが好きな私でもスイーツばかり出されると、ちょっと困ってしまう。甘いものばかりだと、満腹になる前に味覚が麻痺してしまいそうだ。やはり腹が減っているときには、もっとちゃんとしたものを食べたいものだ。そうだな、スイーツではなく肉のパラダイスでもあれば文句なしだ。すき焼き、しゃぶしゃぶ、焼き肉、ソーセージにベーコン、ハンバーグにメンチカツ、唐揚げに焼き鳥……あぁ!好きな肉料理を心いくまで食べることができるのであれば、それこそパラダイスであることに間違いなし。そして、私の腹回りは贅肉のパラダイスになってしまうこと必至である。

それにしても、楽園とかパラダイスなどと言うと、俗的なイメージが先走ってしまいそうである。しかしながら、聖書で楽園と言えば、神が天地を創造されたとき、アダムとエバを住まわせたエデンの園のことを示す。(ちなみに、パラダイスの語源はペルシア語の庭であり、ギリシア語訳された旧約聖書でも使われている。)そしてエデンとは単なる庭というだけではなく、神が創造された、神の庭でもあった。後から追放されることにはなったが、一度は人もそこに住まうことが許されており、そこに実るあらゆる果実を食すこともできたのである。楽園と言えば、人の欲望を満たすことのできる場所と考えてしまいがちだが、本来の意味に遡るのであれば、パラダイスとは神の園なのである。
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おそろしいもの

怖いもの知らずというのとは違うだろうし、勇猛果敢でないことは確かなのだが、最近の自分自身を振り返ってみると、怖いものがあるとか、恐れているものがあるとか、そのような恐怖を抱く対象というのが何も見当たらないような気がする。天災にしても人災にしても、起こる時に起こるものだと、すべてはその時の運次第というか何というか、諦めといえば否定的な感じもするが、覚悟を決めたといえば響きが良い。ともあれ、恐怖するものがないということが良いことなのか、それとも悪いことなのか判断できない。おそらく鈍感になっているだけなのかもしれない。だとすると、あまり良いことではないのだろう。それとも、恐れるような事態に陥ることがないように、事前に策を講じるようにしているからだろうか、であれば用心深くなっているということで、もしかしたら良いことなのかもしれない。

だがしかし、人として本来恐れるべきものがあるのではないかと、そのようなことを考えてみると、やはり恐れるものがないというのは、人間の生き方としてはあまり望ましいものではないのかもしれない。もちろん、先々を見通して注意深くなることに問題はないだろうが、ただの人間、とくに私のような思慮も足りておらず、知恵も知識も未熟な者が、どれだけ先のことを考えておこうなどと思っても、そんなものはたかが知れているに違いない。ということは、やはり恐れが足りないということは、私が鈍感になっており、物事に対する危機感とか緊張感というのが欠けてしまっていることになるのだろう。そうやって考えてみると、どうやらもう少し恐れることを知らないといけないような気になってくる。では、何を恐れるべきなのだろうか。
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12人

ふと、時計を見たときに、12時34分とか11時11分などように覚えやすい数字の並びだったりすると、何やら得した気分になってしまうのは、果たして私だけだろうか。何か良いことが起きそうな気になってしまうのだから、単純というか、安上がりなもんである。諸説あるようだが、人間というのは、時計などを見たときに、数字の並び方に特徴があると記憶に残り易いということらしい。だから、たまたま12時34分に時計を見たからというのではなく、実際にはその前の12時19分に時計を見ていたにもかかわらず、これといって特徴のない数字の並びなので印象に残っていないだけなのかもしれない。それにしても、人というのは、数に対して意味を持たせるのが好きなものらしい。数の並びを当てれば、一攫千金を狙うこともできるかと思えば、不吉なことを連想させる数を避けるとか、良くも悪くも、人は数というものに左右されてしまうのだから、おもしろいものだ。

ところで聖書にもいろいろな数が登場する。例えば「12」という数字。ヤコブの息子たちは12人。そして、そこから発展することになったイスラエルの12部族。またイエス・キリストの使徒は12人いた。さらには、聖書の最後の書であるヨハネの黙示録にはこのような記述もある。「都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。……また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。」(ヨハネの黙示録21章12、14節)何やら「12」という数字が意味を持っているように思えてくる。さらに身の回りを見ると、カレンダーには1月から12月まであり、時計の文字盤には1時から12時まで刻まれている。こうなると、数字に特別な意味があるのではと考えてしまいたくなるが、カレンダーや時計がイスラエルの12部族などと関係があるとも思えない。もしかしたら、想像力が豊かな人にとっては、そうでもないかもしれないが。
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弟子の視点、主の視点

歴史はおもしろい。そう感じるようになったのは、私が大人になってからである。高校の頃は日本史や世界史の授業が、退屈極まりないものに思えたものだ。もとより暗記の苦手な私だったからなおさらである。今さら言っても仕方が無いのだが、もう少しまじめに勉強しておけば良かったと思う。歴史の魅力というのは、過去に起こった事実はひとつだけしかないにも関わらず、後の世に生きる私たちは、様々な視点からそれを観察することができることにあるのではないかと私は思うのだ。

学生時代歴史に接しなかった反動か、私は歴史小説が好きである。もちろん小説であるから、史実を基にしているとはいえ、多かれ少なかれ作家の主観や脚色が入っているだろうから、完全に真実であるとは言えないだろう。だが、それなりの調査に基づいて書いているだろうし、大筋ではあっているとも言えよう。たとえば、幕末から明治維新の出来事やそれに関係する人々を題材にした作品は多い。ちょうど私の好きなジャンルでもある。江戸から明治へ時代の遷移というひとつの出来事である。幕府や会津の側から読むこともあれば、薩摩や長州の立場から読むこともある。官軍の視点もあれば、賊軍の視点もある。無責任かもしれないが、傍観者として私は様々な視点から物事を見ることができる。もし私がその時その場所にいたら、自分自身のただひとつの視点からしか物事を見ることができなかっただろう。
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