杖が蛇に

「モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。」(出エジプト記7章10節)モーセたちがエジプトの王のところに行く前、神はこのようにふたりに仰せられていた。「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」(同9節)そして、ふたりは神に命じられた通りにしたのである。アロンが手に握っていた杖をパロたちの前の床に投げると、たしかに神が前もって言ったように、それは蛇になったのである。しかしなぜ蛇なのだろうか。形が似ているからだろうか。たしかに、杖も、蛇も、どちらも細長いと言えるだろう。しかし理由はそれだけなのだろうか。

ところでエジプトの王で最も知名度の高い人物と言えば、まず思い出すのはツタンカーメンではないだろうか。彼がどのような王であったのかという史学的な価値よりも、ツタンカーメンの呪いだとか、ツタンカーメンの黄金マスクとか、どちらかと言えばセンセーショナルな話題の方が印象に残っている。さて、王家の谷にある彼の墓から発見された有名な黄金のマスクだが、よーく見てみると、額の上のところに何か付いているのに気が付くだろう。そう、ハゲワシとコブラの飾りがついている。ハゲワシはひとまず置いておくとして、コブラは蛇である。つまり当時のエジプトの民にとって、蛇は何らかの重要な意味を持っている存在なのであろう。

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神が動くとき

「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」(出エジプト記7章3~5節)もしエジプトの王が、モーセとアロンによって伝えられる神のことばに従わないのであれば、どのようなことになるか。そのとき、神は自ら行動を起こすと言っている。

幸い、と言うべきかどうか、どうも悩ましいところではあるが、「出エジプト記」という旧約聖書の中の一冊を読んだことで、これから何が起こるのかを、すでに私たちは知っているのである。これまでに聖書を読んだことがなかったとしても、エジプトにどのような災いがもたらされることになるかを、映画で見たり、雑学程度に聞いたりしたことのある人々もいることだろう。もしかしたら聖書を信じない人たちにしてみれば、そんなのはただの神話だ、伝説だ、モラルを教えるための作り話でしかないと思うかもしれないが。いずれにせよ、後の世に生きている私たちの視点から見れば、パロのことをなんと愚かな王であろうかと考えるのは容易なことである。神に意地を張って、無駄な抵抗など試みずに、素直にモーセとアロンの要求を受け入れて、イスラエルの民を解放してやればよいものを、と考えてしまうのは、物語の結末を知っている私たちのちょっぴりズルいところなのだろうか。

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私は口べたです

「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」(出エジプト記6章13節)おや、これは一体どうしたということだろうか。モーセはずいぶんと弱気になっているようではないか。つい最近、神から励ましのことばをもらったばかりだというのに、なぜまたこのような不満を神にぶつけているのだろうか。少し前のところには、このように書いてある。ちょうど、モーセが神からことばを頂いた直後のことだ。彼は再びイスラエルの民のところへ出て行き、神のことばを伝えた。すると人々は彼の伝えた神のことばを聞いて、慰められ、励まされ、力付けられた……そう言うことができたら、完璧だったであろう。だが現実はこうだった。「彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。」(同9節)

神がイスラエルの民のためにすばらしい約束をしてくださったと、どれだけモーセが人々に言っても、そもそも疲れ切った彼らには、そのような話を聞こうという気持ちは起きなかったのであろう。ここには書かれてないが、もしかしたら、まだ人々の間にはモーセに対する不信感があったのかもしれない。彼らが置かれている状況を考えると、なぜ彼の話に耳を傾けないのかと、彼らを責めるのも何か違うような気がする。またもやモーセは苦境に立たされてしまった。そのような彼に、神は再び告げて言われた。「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」(同11節)これに対するモーセの応答は、先に読んだ通りである。なるほど、彼が弱気になってしまうのも、もっともなことである。

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わたしの民、あなたがたの神

「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」(出エジプト記6章7~8節)神の言いつけに従い、イスラエルの人々をエジプト人の手から救い出し、約束の地へと導いて行かんと、そのように意気込んでいたにも関わらず、結果としては八方塞がりになったモーセであった。しかしモーセだからこそ、ここまで耐え抜くことができたのだろう。もし私が彼のような目に遭ったとしたら、さっさとイスラエルの同胞を捨て、神へ何と言い訳をするかということばかりを考えながら、もう一度エジプトから逃げ出したことだろう。かと言って、前に住んでいたミデヤンにそのまま帰るのもみっともないと、無駄に高いプライドがあったりで、きっとまた別の土地に逃げ出してしまうことだろう。

エジプトに踏み止まったモーセは「何のために、私を遣わされたのですか」と神に訴えた。そして神は御自身の考えをモーセに語られ、前述のように締めくくっている。すなわちイスラエルの人々を神の民とし、御自身はイスラエルの人々の神となると、神は仰られた。果たしてこれ以上の励ましはあっただろうか。

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神の契約

「わたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。」(出エジプト記6章4~5節)一度はイスラエルの民に受け入れられたものの、今は彼らからの信頼を失ってしまったモーセは、また同時に神のなさることに疑問を抱いてた。おそらくモーセは進退窮まって途方に暮れていたであろう。彼に味方するものはイスラエルの民にはいなかったであろうし、当然ながらエジプトの民のうちには皆無だったに違いない。わずかに彼の妻と子供たち、そして兄のアロンがそばにいたくらいであろう。しかしこのような状況では、彼らもモーセにとっては慰めでしかなかっただろう。誰一人として現実的な解決策を示すことはできなかった。追い込まれたモーセは神を頼るしかなかった。そのような彼に神は前述のように仰った。

神は昔、モーセが生まれるはるか前に、アブラハムとこのような契約を交わした。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」(創世記15章18節)またアブラハムの子イサクにはこう言っている。「それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」(同26章3節)そしてさらにその子のヤコブには夢の中に現れて、こう伝えている。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。」(同28章13節)三世代に渡って、神はアブラハムの家とこのような約束をしている。これは神の確たる意思のあらわれであろう。それはアブラハムの家にとって大事なことであるとともに、神にとっても重要な意味を持っていたのかもしれない。

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