神の名は

「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」(出エジプト記6章1節)イスラエルの民がエジプト王の命令によって、これまで以上の労働を課せられたとき、人々の不満はモーセとアロンに向けられてしまった。彼らの文句を聞かされたモーセは、なぜ彼らをエジプト人の手から救い出されないのかと神に訴えたのだが、その答えとして神はこのように仰られた。確かに言えることは、神はイスラエルの民を忘れてはいなかったと言うことだ。ただモーセにしてもアロンにしてと、またイスラエルの人々にしても、まだそれがどのようなもので、どのようにしてその日がやってくるのか、まだ分からないと言うことだった。

神の手段が、まだ人には分からないと言うことだけで、なにも神がイスラエルの民を忘れてしまったと言うわけでもなければ、神の代弁者であるモーセ達を責めたことで、彼らに対して腹を立てたというわけでもなかった。神には神のみが知りうる計画があり、それに従ってエジプト王を動かし、人々をエジプトから連れ出すと言っている。もちろんモーセにもはっきりとしたことを知る由はなく、ただ神の言うことを信じることしか彼にはできなかった。もとより彼にはそうする以外の選択肢もなかったに違いない。進むにも行く場所はなかったであろうし、戻るにも帰る場所はなかっただろう。いや、もしかしたらかつてそうしたように、ミデヤンの地まで逃げ帰ることもできたかもしれない。しかしそれを神が知ったらどうなるか、それはそれで不安だったろう。

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れんがよりかたい心

「あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」(出エジプト記5章9節)エジプト王パロが出した結論は、これであった。モーセたちの訴えにはまったく耳を貸さなかった。それどころか、彼らの言う言葉を虚言だと決めつけていた。もし彼らの言うことが嘘であるなら、彼らにそのような言葉を与えた、神の仰られたことそのものが偽りであると言っているようなものだろう。つまり神のことを、嘘つき呼ばわりしているも同然だ。イスラエルの神など知らぬと言い放つほどに驕り高ぶったパロのことだから、そのように考えていたとしてもおかしくはない。

イスラエル人にあれこれと考える余裕を与えてはならないと考えたのか、これまで以上の労働を彼らに課すことにしたパロは、エジプト人の現場監督たちに言い含めて現場に向かわせた。彼らはこのようにイスラエル人に伝えた。「パロはこう言われる。『私はおまえたちにわらを与えない。おまえたちは自分でどこへでも行ってわらを見つけて、取って来い。おまえたちの労役は少しも減らさないから。』」(同10~11節)単純に考えれば仕事が倍になったようなものだ。今まではれんがを作る――もちろんそれも大変な労働ではあったに違いない――だけで済んだが、今度はれんがの材料も自分たちで調達しろというのである。その代わりに、生産量は半分に減らしても構わないと言われたら、それなら仕方がない、となったかもしれないが、現実はもっと残酷なものであった。

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何を恐れるか

「イスラエルの神、主がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」(出エジプト記5章1節)神に導かれるままにエジプトへ戻り、そしてイスラエルの民に神からのメッセージを伝え、また神に言われたように不思議なわざを行ってみせ、ようやく民からも受け入れられて、ようやくモーセとアロンも自分たちの役割に確信を持ち始めていたことだろう。そして二人はエジプト王パロのところに行き、神からのみことばを伝えた。

「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない。」(同2節)パロにとってイスラエルの民は「隣人」でもなければ「同胞」でもないし、ましてや「親しき友人」でもなかった。ただの「労働力」であり「脅威」でしかなかった。もちろんエジプト人のうちにもモーセを救った王女のように、イスラエルの民に同情する人々も何人かはいただろうが、大多数にとってはイスラエル人から搾取こそすれ、彼らに哀れみを掛けようといった思いはなかっただろう。

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信じて踏み出す

「モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。『どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。』イテロはモーセに『安心して行きなさい。』と答えた。」(出エジプト記4章18節)荒野で羊の世話をしているときに神と出会い、そして神からエジプトに戻りイスラエルの民を連れ出すように命じられ、ためらうことなくその通りにしますと答えたモーセは、家に帰るとそのことを義父であるイテロに伝えた。立場を考えれば、そう簡単に「エジプトに帰ります」と言って「では、行ってらっしゃい」と言われるような状況ではなかったかもしれない。たしかにモーセはイテロの娘たちを助けたし、その一人と結婚をしたが、今や羊の群れを任されるほどに欠かせない存在であったろう。もしかしたら、イテロの思いからすれば、エジプトから逃げ出して行く場をなくし、荒野をさまよっているところを助けてやったのに、という気持ちもあったかもしれない。もちろん聖書にはそこまで書かれていないから、私の勝手な憶測でしかないが。

しかしイテロはモーセがエジプトへ戻ることを許した。いや、ただ認めたというのではなく「安心して行きなさい」と励ましの言葉まで添えて送り出している。なぜなのか。これも聖書には書かれていないから、やはり私の想像になってしまうが、モーセのところに現れた神は、必要であればイテロのところにもやってきたのではないかと。さすがにイスラエルの民ではない彼のところに、モーセに対して現れたのと同じ方法でやってきたとは思わない。もっと地味で静かな、それこそイテロ自身も気付かないような現れ方だったかもしれない。彼の五感に訴えるのではなく、そっと彼の心に触れ、モーセの望むままにさせようという思いを心に置いたとしても、あり得ないことではないだろう。

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今、行きます

「モーセは神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』」(出エジプト記3章11節)神がモーセのところに現れて、エジプトに戻りイスラエルの民を連れ出せと命じたことへの、モーセのリアクションである。やはりモーセといえども、不安がまったくなかったわけではないようだ。彼の不安とは何だったのか、エジプト人に見つかって捕らえられたらどうしようか、王の元へ連行されて殺されてしまうのではないか、という彼の身の上に起きることを心配していたのだろうか。誰であれ自らの命を付け狙うものがいるような場所に行きたいとは思わないだろう、誰しもがそう考えるに違いない。モーセがそのように思ったとしても不思議ではない。

しかしどうやらそうではなかったようだ。少なくとも、モーセの神への問いかけを読む限りでは、モーセがそのような不安を持っていたとは読み取ることができない。彼の不安は「私はいったい何者なのでしょう」という一点であったのではないか。さらに考えてみると、彼のそのような悩みには二つの側面があったようだ。

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